最近、ただ「寄付」と言えば良い場面で、
わざわざ「ダクシナー」という言葉が間違って使われているのを目にします。
「ダクシナー」と「寄付」を混同して使うのは大変失礼です。
さらに、ヴェーダの知識の伝授における神聖さが損なわれてしまいます。
とにかく、
「ダクシナー」と「寄付」は全く別物、
ダクシナー ≠ 寄付
と覚えていてください。
いつだったか、言葉の無知により「彼女は寄付で教えています」といった
紹介文を書かれたことがあり、言葉の独り歩きの危険を感じました。
私は寄付をもらうために教えているのではありませんし、
ダクシナーをもらうために教えているのでもありません。
私は、ただただシンプルに、訊かれたから知っていることを教えているだけです。
ダクシナーを渡された場合、渡した人の学びが実を結ぶことを祈って受け取り、
皆さんのプンニャに還元されるようにという私の意志で、
そのダクシナーはほぼ全額寄付しています。
受け取ったダクシナーをどう使うかは、先生方それぞれで、
ダクシナーを渡した人が、使い道を指定したり、
使い道を知りたがったりするのは間違っていますが、
私個人の場合は、
ダルマに沿いやすい社会が実現するように、
ヴェーダーンタの勉強がしやすい環境が整うように、
という願いを込めて、ダクシナーを寄付に使い、
そういうことを知るのも皆さんにとって勉強になると思うので、
この場でこのように伝えています。
「ダクシナー」と「寄付」の違いを見てみますね。
他の多くの言葉にも言えることですが、
「ダクシナー」が何かを理解するだけでも、
ヴェーダの文化の深い理解が必要ですから、
「寄付」とか「お布施」といった一言で簡単に済ませてしまおうとするのではなく、
根気よく観察しながら、その意味を習得してみてください。
義務も責任もない相手に、自分に出来る限りのものを与えることです。
自分に義務や責任がある場合、例えば、
扶養義務のある家族にお金を渡す、買い物の支払い、請求書の支払いなどは、
寄付(ドネーション)とは言いません。
義務も責任も無いところに、自らわざわざ一歩踏み出して、
自分の身を切って与えるわけですから、
自由意志を使わなければ出来ることではありません。
人間が人間たるゆえんは、自由意志が使えることですから、
自由意志を正しく使うことはつまり、人間的な成長を遂げることです。
アシュラムの滞在費は全てドネーションで運営されています。
アシュラムには寄付(ドネーション)するものであり、
それはダクシナーと呼ぶものではありません。
チャリティー・ヨガなどのイベントで渡されるものも、
寄付(ドネーション)であり、それをダクシナーと呼ぶのは相応しくありません。
ダクシナーをしない限り儀式は完結せず、結果は出ないとされます。
ホーマ、プージャーなどに限らず、
ヴェーダの知識の伝授も神聖な儀式とみなされます。
ゆえに、伝統を重視して、教えの後に先生にアーラティをすることもあります。
ヴェーダのチャンティングや意味を教えること、
そしてもちろん、ヴェーダーンタの知識を伝授することも、
「ヴェーダの知識の伝授」ですし、
ヴェーダーンガと呼ばれる、発声法、文法、ジョーティシュなどを含む
6つの知識体系も、ヴェーダの知識の理解に必要な教養として数えられます。
ちなみに、皆さんの大好きな「ヨガ」は、
ヴェーダでもヴェーダーンガでもありませんから、
ヨガの先生に渡すものに対して「ダクシナー」を使うのは??という気もしますが、
実際はどんな先生にでもお礼をするときにはダクシナーと言われているようです。
ダクシナーは賃金・給料でもありません。
ゆえに、「1クラスいくら」のように「先生を賃金で雇う」ような姿勢になるのは、
とっても危険です。
ダクシナーは普通、教えの区切りがついたときや、
グルプールニマー などの特別な日など、節目節目に、
個人的に挨拶に行って手渡しします。
また、セーヴァーをすることで感謝と敬意を表すこともあります。
他の多くの言葉にも言えることですが、
「ダクシナー」が何かを理解するだけでも、
ヴェーダの文化の深い理解が必要ですから、
「寄付」とか「お布施」といった一言で簡単に済ませてしまおうとするのではなく、
根気よく観察しながら、その意味を習得してみてください。
わざわざ「ダクシナー」という言葉が間違って使われているのを目にします。
「ダクシナー」と「寄付」を混同して使うのは大変失礼です。
さらに、ヴェーダの知識の伝授における神聖さが損なわれてしまいます。
とにかく、
「ダクシナー」と「寄付」は全く別物、
ダクシナー ≠ 寄付
と覚えていてください。
いつだったか、言葉の無知により「彼女は寄付で教えています」といった
紹介文を書かれたことがあり、言葉の独り歩きの危険を感じました。
私は寄付をもらうために教えているのではありませんし、
ダクシナーをもらうために教えているのでもありません。
私は、ただただシンプルに、訊かれたから知っていることを教えているだけです。
ダクシナーを渡された場合、渡した人の学びが実を結ぶことを祈って受け取り、
皆さんのプンニャに還元されるようにという私の意志で、
そのダクシナーはほぼ全額寄付しています。
受け取ったダクシナーをどう使うかは、先生方それぞれで、
ダクシナーを渡した人が、使い道を指定したり、
使い道を知りたがったりするのは間違っていますが、
私個人の場合は、
ダルマに沿いやすい社会が実現するように、
ヴェーダーンタの勉強がしやすい環境が整うように、
という願いを込めて、ダクシナーを寄付に使い、
そういうことを知るのも皆さんにとって勉強になると思うので、
この場でこのように伝えています。
「ダクシナー」と「寄付」の違いを見てみますね。
他の多くの言葉にも言えることですが、
「ダクシナー」が何かを理解するだけでも、
ヴェーダの文化の深い理解が必要ですから、
「寄付」とか「お布施」といった一言で簡単に済ませてしまおうとするのではなく、
根気よく観察しながら、その意味を習得してみてください。
寄付(ドネーション)とは、
義務も責任もない相手に、自分に出来る限りのものを与えることです。
自分に義務や責任がある場合、例えば、
扶養義務のある家族にお金を渡す、買い物の支払い、請求書の支払いなどは、
寄付(ドネーション)とは言いません。
義務も責任も無いところに、自らわざわざ一歩踏み出して、
自分の身を切って与えるわけですから、
自由意志を使わなければ出来ることではありません。
人間が人間たるゆえんは、自由意志が使えることですから、
自由意志を正しく使うことはつまり、人間的な成長を遂げることです。
アシュラムの滞在費は全てドネーションで運営されています。
アシュラムには寄付(ドネーション)するものであり、
それはダクシナーと呼ぶものではありません。
チャリティー・ヨガなどのイベントで渡されるものも、
寄付(ドネーション)であり、それをダクシナーと呼ぶのは相応しくありません。
ダクシナーとは、
ヴェーダの儀式における重要なアイテムのひとつで、ダクシナーをしない限り儀式は完結せず、結果は出ないとされます。
ホーマ、プージャーなどに限らず、
ヴェーダの知識の伝授も神聖な儀式とみなされます。
ゆえに、伝統を重視して、教えの後に先生にアーラティをすることもあります。
ヴェーダのチャンティングや意味を教えること、
そしてもちろん、ヴェーダーンタの知識を伝授することも、
「ヴェーダの知識の伝授」ですし、
ヴェーダーンガと呼ばれる、発声法、文法、ジョーティシュなどを含む
6つの知識体系も、ヴェーダの知識の理解に必要な教養として数えられます。
ちなみに、皆さんの大好きな「ヨガ」は、
ヴェーダでもヴェーダーンガでもありませんから、
ヨガの先生に渡すものに対して「ダクシナー」を使うのは??という気もしますが、
実際はどんな先生にでもお礼をするときにはダクシナーと言われているようです。
ダクシナーは賃金・給料でもありません。
ゆえに、「1クラスいくら」のように「先生を賃金で雇う」ような姿勢になるのは、
とっても危険です。
ダクシナーは普通、教えの区切りがついたときや、
グルプールニマー などの特別な日など、節目節目に、
個人的に挨拶に行って手渡しします。
また、セーヴァーをすることで感謝と敬意を表すこともあります。
他の多くの言葉にも言えることですが、
「ダクシナー」が何かを理解するだけでも、
ヴェーダの文化の深い理解が必要ですから、
「寄付」とか「お布施」といった一言で簡単に済ませてしまおうとするのではなく、
根気よく観察しながら、その意味を習得してみてください。