2017年5月24日水曜日

宇宙は、わたしを抜きにして、宇宙と呼ぶことはできない。

 


これは、私がベジタリアンになり始めた頃、

私が何度も体験していた、何とも比べようもない強烈な多幸感を呼び起こす思考でした。

「宇宙は、わたしを抜きにして、宇宙と呼ぶことはできない」

という、科学的で、ただただ客観的な事実に思考を巡らせているだけで、

この圧倒的で、どこかに飛んで行きそうな位の多幸感に包まれるなんて、

自分は頭がおかしくなったのではないかと思うこともありましたが、

後でそれは当然のことだと分かりました。


自分の身体は、代謝という自然の摂理に従い、宇宙と繋がっています。

自分の血や皮膚や筋肉を構成している鉄分や窒素や炭素は、

以前は宇宙のどこかに浮遊していたものが、

太陽系の出現とともに地球の構成要素の一部となり、


気体となり、水となり、土となり、食べ物となり、

そして今、私の身体を構成しています。


私が毎分吐いている息も、

毎日剥がれ落ちている皮膚細胞も、

時間と共に、宇宙の構成要素と還元していきます。



というよりも、この太陽系も、その中の地球も、

宇宙の構成要素に他ならず、

ゆえに、私という存在も、宇宙の構成要素に他なりません。


死んでから灰となって還元されるのを待たなくても、

今ここに居る自分が、すでに宇宙の構成要素なのです。



「宇宙 ―(マイナス) 自分」だったら、

それは全宇宙と呼ぶことは出来ません。


ゆえに宇宙は、この自分を抜きにして、

「完全な宇宙」とは呼べないのです。


私の身体、生命力、考え、感情、記憶、、どこを取っても、

それらは、宇宙在り方そのものです。


いまここにいる自分の全てが宇宙の表現に他ならないのだから、

「宇宙と繋がってる」

などではなく、


「わたしが宇宙」


なのです。



そんな当たり前ののことを、殆どの人間は忘れてしまっています。

なぜでしょうか。

なぜ私はベジタリアンになることによって、

意識して、生きているものへの苦痛や負担を軽減しようとすることによって、

この多幸感をえることになったのでしょうか。


自分と宇宙の間の代謝は放っておいても勝手に自然がしてくれますが、

自分が何を食べるかには、自分の自由意思・選択を使っています。



食べるという、人間が毎日している、命に関わる基本的な行為には、



自分自身の、個人個人の、その時その場所での、

「意識的な選択」

が大きく関わっています。

便利だから、美味しいから、みんなと一緒が安心だから、仲間外れは怖いから、

という利己的で受け身的な態度を、

手放して、自由になり、

自分の頭で、論理的に、倫理的に考えて、

最も理に適い、最も調和し、最も自己矛盾の無い選択をしたとき、

宇宙との調和を取り戻し、

今まで、人間の利己的で偏狭な価値観によって隠されていた、

宇宙の在り方と自分の在り方の一致が、

より明確に見えるようになるのは、尤もなことです。




後で知ることになったのですが、

この多幸感のことを、オーシャニック・フィーリング(大洋感覚)と呼ぶそうです。

自分と宇宙との境目がない、自分は宇宙と同一であり、

自分という存在が宇宙として無限に広がる、ただただ純粋に幸せな感覚です。


だいぶ後に、何年も経ってから、

ヴェーダーンタを勉強することによって教えてもらうのですが、

経験的な幸福とは、自分をこの世界から切り離している認識が、

薄れている状況を指します。

例えば、好きな人と離れていない時、好きな人から好きと言われとき、

好きな音楽を聞いたり、山や海や星空や朝焼けを眺めたり、

といった、自分と対立していない状況にある時に、

人は幸せに感じる経験をします。


自分を宇宙と同一として認識して得られていた、あの多幸感は、

このことによるのだな、と納得できました。


自分という存在を、身長何センチ、体重何キロ、にしている、

物理的な枠組みは、秒単位で変化している、

実に儚いコンセプトです。


その儚いコンセプトにしがみつき、自己認識をしていた自分から、

宇宙全体での自己認識へのシフトを手伝ってくれたのは、

自分がこの世界とどう関わっていくかの選択にありました。

搾取するばかりの利己的な消費者から、

他への痛みを少しでも減らし、貢献を増やそうとする、

より調和のある生き方への選択です。


2017年5月22日月曜日

じゃあ、何をどうしたらいいの?


下の絵に描かれているのは、
生まれて、学校に行って、就職して、家族を持って、死ぬ、というベルトコンベアに乗っている人々。
上には監視カメラがあり、逃げ出す人を照らし出している。  
そして、こう書いています。
「あなたは、単に働いて、請求書を払って、死ぬためだけに生まれたのではない!」 
 

でもさ、じゃあ、何をどうしろというのでしょうか?
これをきちんと答えられる人が、私達の社会にいますか?

問題は、学校でも、仕事でも、家族でも、
生まれて来ることでも、死ぬことでもありません。

問題は、
じゃあ、人生で何を手に入れるべきなのか?
自分の本当に欲しいものは何のか?
ということを、知らないこと。

しかも、知ろうとも考えようともしない。

資本経済社会は、「もっと生産して、もっと消費しなきゃ、幸せになれないよ」というアイディアしか知らない。
それ以外の価値観を教える文化は隅っこに追いやられた。

なぜ今回人間として生まれて来たのか?
と教えられる社会に生まれてこなかったら、こうなるのも仕方ない。

自分の本当に欲しかったものを知り、それを得る手段を知れば、
学校も、仕事も、家族も、そしてそれらが無い人生も、
全ては自分を磨いてくれる幸運に満ちたチャンスです。




2017年5月19日金曜日

群盲象を評す 


「群盲象を評す」とは

 


私がヴェーダーンタの勉強を始めた頃に聴いた、
「知る対象物に合った、適切なプラマーナを使わなければ、
それを正しく知ることは出来ない」
ということを教える時に使われていた例え話なので、
てっきりヒンドゥー文化のものだと思っていましたが、
ジャイナ教、仏教、イスラム教、さらにキリスト教でも、
説法や説教で引用されていると、最近知りました。

そりゃ、ヒンドゥー教だったらもちろん、陸続きなんだから、
仏教経由で東に行って東南アジアや日本まで行ったり、
西側にも広がって当然ですよね。
別にこの例え話のオリジナルのソースがヒンドゥー教じゃなくてもいいですしね。

いろんなヴァージョンがありますが、話はだいたいこんな感じです。

一匹の大きな象の周りに、目の見えない人が何人か集まって、
(もしくは暗闇の中に何人かが集まって、)
自分達の前にあるものが何か知ろうとしていました。
 

目で見て知ることが出来ないので、
いろいろ触ってみた感触で、それが何かを結論付けます。
 

象の足を触った人は、「象とは、太い柱のような生き物です」 と言い、
象の鼻を触った人は、「いやいや、象とは、大蛇のようです」 と言い、
象の胴体を触った人は、「象とは、大きな壁のようだ」 と言い、
象のしっぽを触った人は、「象とは、長いロープのようだ」 と言って、
結局みんなバラバラの結論に辿り着きます。



「群盲象を評す」の例え話が「群盲象を評す」のようになってる?



そもそも、全体を知るためのプラマーナに欠落した人達にとって、
この例え話が何の役に立つのだろうか?
と、正直とても不思議に思いました。

そういうわけで、それぞれのヴァージョンにおいて、
例え話が教えようとしている教訓を斜め読みしてみました。

「人それぞれ限られた知る力で得られるのは、小さな知識だけ。
それで全体像を知ってると言うのは、危険である」

ってだいたいこんな感じだったと思います。

それってヴェーダーンタでも同じ?のようにも見えますが、

決定的に違うのは、

知りたいものに見合った、
正しいプラマーナがなければ、
間違ったプラマーナをいくら使っても、
正しい知識は得られない、

と言うことです。

赤いバラの、「色」を知りたければ、
「目」というプラマーナを使わなければなりません。
いくら触っても、匂っても、目を開けない限り、
それが赤だとは分かりません。

同じことが群盲象を評すの例えで教えられているのです。
(ヴェーダーンタではね。)

あらゆる経験は、対象物を知るためのプラマーナであって、
主体の本質を知るためには出来ていません。

自分の身体はもちろん、感覚も心も考えも、対象物なのですから、
いくらミラクルな経験をしても、思考を深めても、瞑想を深めても、
どこまで行っても、対象物を見ているだけです。

それはちょうど、目が見えない人達が、象を触っているのと同じ。
必要なのは、全体を見る目というプラマーナであって、
象を触った感想を100集めても、象にはなりません。

この、「それぞれの対象にはそれぞれ適切なプラマーナ」
というコンセプト無しに、いくら象を触り続けても、
それは単に「不適切なデータの寄せ集まり」になってしまいます。

不適切なデータをどれだけ集めても、適切な知識は得られません。

「自分の本質とか、世界の本質とか、真理とか、
限りある知性を持っている人間には絶対に無理!」
というのも尤もですが、それは、
もう一つのプラマーナの可能性を知らないが故の結論です。


柱と蛇と壁とロープを組み合わせても、象にはなりませんし、
「いやいや、柱と蛇と壁とロープを組み合わせてたのが象じゃん?」
といっても、まず象の全体像を「見る」、「目」というプラマーナが無ければ始まりません。
目で見て、全体像を知って、初めて、柱みたいなのが足で、、、と言えるのです。


プラマーナというコンセプトを欠いた、さまざまな人々によって、
様々に解釈されている様はまさに、
「群盲象を評す」の例え話が「群盲象を評す」のようになってるじゃないか!
と思いましたが、他の解釈を読んでみて、比較することによって、
私の場合は、この例え話がうまいこと付いてる点を、より良く見ることが出来たので、
それはそれなりに私にとっては有用な点があったと感謝しております。
  

プラマーナが何か分かっていないから、何でも結局、「真実は体験するもの!」としか言えなくなってしまいます。
これが地球上の人類皆共通の混乱ですね。

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