自分が今ここで何をすべきかは、
自分に与えられた状況を客観的に見ることが出来たら、
おのずとはっきりするはずですが、
ラーガ・ドヴェーシャ(道徳に反した行動をさせる要因となる心理的依存)があれば、
客観性は鈍ります。
あと、現代の日本では、社会での自分の役割というのが、あいまいですね。
自分が何をするべきかを決めるだけでも、人生の多くの時間がとられてしまう。
与えられた状況でおのずと決まっているのだから、
ヴェーダでは、 何をするかとか、どの職業に就くかはあまり問題ではなく、
目の前の状況の中で、世に貢献出来るベストな行動なら、
何でもいいから、それを淡々とこなして世に貢献しながら、
それをどれだけフェアにするか、
より多くの生き物の幸せに貢献できる行動にするか、
自分の成長に繋げて行けるか、
にフォーカスすることを教えます。
自分が何をするべきかを決めるだけでも、人生の多くの時間がとられてしまう。
与えられた状況でおのずと決まっているのだから、
ヴェーダでは、 何をするかとか、どの職業に就くかはあまり問題ではなく、
目の前の状況の中で、世に貢献出来るベストな行動なら、
何でもいいから、それを淡々とこなして世に貢献しながら、
それをどれだけフェアにするか、
より多くの生き物の幸せに貢献できる行動にするか、
自分の成長に繋げて行けるか、
にフォーカスすることを教えます。
つまり、この時この場所で、知りうる限りで、
自分の行動の選択を、人間としての高潔さを表現できるものにするか、ということです。
それは、「この世界からどれだけ多くをGETできるか」という満たされない考えから、
「この世界にどれだけ多くを与えられるか」という満たされた考えに基づいて、
行動を選択することです。
これは、ギーターの中の有名なシュローカ
योगः कर्मसु कौशलम् । yogaḥ karmasu kauśalam |
ヨーガとは、行動における、分別・思慮深さである。
によって教えられています。
この部分も、日本語では様々な「独自の」解釈が見受けられますが。。。
自分の行動の選択を、人間としての高潔さを表現できるものにするか、ということです。
それは、「この世界からどれだけ多くをGETできるか」という満たされない考えから、
「この世界にどれだけ多くを与えられるか」という満たされた考えに基づいて、
行動を選択することです。
これは、ギーターの中の有名なシュローカ
योगः कर्मसु कौशलम् । yogaḥ karmasu kauśalam |
ヨーガとは、行動における、分別・思慮深さである。
によって教えられています。
この部分も、日本語では様々な「独自の」解釈が見受けられますが。。。
今の日本のような行き過ぎた資本主義社会の中の価値観では、
不必要であろうが、不道徳であろうが、やみくもに生産・消費することが、
あたかも「お前のするべきことだ」と推奨されているので、
もちろん遅かれ早かれ自分にも周りにも無理が出て来て、
「それは違う」となってしまう。
だから、最近「ワクワク」とか「本能」に従うのが
スピリチュアルなのだという風潮になるのだと思います。
ヴェーダの伝統は、
「『より多く消費すること』ではなく、
不必要であろうが、不道徳であろうが、やみくもに生産・消費することが、
あたかも「お前のするべきことだ」と推奨されているので、
もちろん遅かれ早かれ自分にも周りにも無理が出て来て、
「それは違う」となってしまう。
だから、最近「ワクワク」とか「本能」に従うのが
スピリチュアルなのだという風潮になるのだと思います。
ヴェーダの伝統は、
「『より多く消費すること』ではなく、
人間社会に、デーヴァ達に、動物や植物にも、
『より多く貢献すること』が、人間として成長するための、
あるべき生き方なんだよ」
と人間にはっきり教えてくれています。
祈りを込めて。