最近では、ヨガがメインのコースで、哲学の座学でヴェーダーンタに出会い、、
というのが、ヴェーダーンタの入口の王道となっているようで、
それはとても良いことだと思いますが、
ヴェーダーンタは、(アーサナとか八支則とかの)ヨガとは完全に別物ですから、
ヴェーダーンタをきちんと勉強するのなら、
ヨガやその他のものからはしっかり切り離して、
違いをはっきり見分けて勉強するべきですね。
その違いをはっきり見極めているのが、ヴェーダーンタの先生の資格であり、
その違いを教えるのが、ヴェーダーンタの先生の役割でもあります。
ヴェーダーンタを勉強する上では、
ヨガや仏教などの位置づけをしっかり把握する必要があります。
ヨガの延長線上にヴェーダーンタ、という単純なポジショニングでは、
結局どちらとも理解できていないことになります。
ヴェーダーンタと、ヴェーダーンタ以外の文献(ヨーガなど)は、
アヌバンダ・チャトゥシュタヤからして完全に違うのですから、当たり前ですね。
社会や家庭で与えられた自分の義務をスムーズにこなすために、
丈夫でしなやかな身体と、適度に落ち着いた心をメンテするのには、
ヨガというテクニックは有効ですが、
ヨガは全ての人にとって必要なものではありません。
ヨガ以外にも心身のメンテの方法は多くあるし、
実際、ヨガをしていなくても、
自分の義務をこなすのに十分な心身を持って、
社会や家庭に貢献している人はたくさんいますね。
アヒムサー等の価値を教えるのも、ヨガの特権ではありません。
それらは文献が無くても人間なら分かることです。
(プルシャ・アルタとの繋がりが見えると、その価値観に価値を見出せますが、
プルシャ・アルタを完全に明確にするための文献を、ヴェーダーンタと呼びます。
他の全ての文献は、プルシャ・アルタがまだ明確でない人、
もしくはそれが最終的なプルシャ・アルタでないと分かっている人の為にあります。)
一方、ヴェーダーンタの教える(カルマ)ヨーガには、
イーシュワラの理解が必要です。
イーシュワラについてのプラマーナをヴェーダーンタと呼びます。
「いや、ヨーガ・スートラもイーシュワラを教えている」と言うかもしれませんが、
ヨーガ・スートラのイーシュワラは、ニミッタ・カーラナのみで、
そこにアドヴァイタのヴィジョンはありません。
ゆえに、ヨーガ・スートラの教えでは、
ヴェーダーンタの教えるカルマ・ヨーガに必要な知識は得られません。
ヨガが教える範囲は、「この身体と心の状態」という範囲内です。
(サマーディであろうが浄土であろうが、「範囲内」と言ってのけるのが、ヴェーダーンタです。
アニッティヤであることから、そこに真実が無いことを見極めるのがヴィヴェーカであり、
そこに心理的に期待・依存しないのが、ヴァイラーギャです。)
心身のコンディションには、完璧を求めても時間と労力の無駄なので、
ある程度心身のコンディションが整えば、
心身をいじくりまわすことに時間と労力を費やすのではなく、
自分に与えられた義務をこなし、プルシャ・アルタについて考える時間に回さないと、
人間として生まれた時間がもったいない。。。
ヴェーダーンタの教える範囲は、この身体と心を含む宇宙全体の本質です。
イーシュワラについて、イーシュワラの本質について、
そしてそれが自分の本質であるという事実を知るための手段(プラマーナ)を、
ヴェーダーンタと呼びます。
「いや、ヨガも自分の本質を知るためのプラマーナだ」というのは、
ヨガもヴェーダーンタも知らないのと同じです。
(これはヨガだけではなく、他の知識でも何でも当てはまります。)
というのが、ヴェーダーンタの入口の王道となっているようで、
それはとても良いことだと思いますが、
ヴェーダーンタは、(アーサナとか八支則とかの)ヨガとは完全に別物ですから、
ヴェーダーンタをきちんと勉強するのなら、
ヨガやその他のものからはしっかり切り離して、
違いをはっきり見分けて勉強するべきですね。
その違いをはっきり見極めているのが、ヴェーダーンタの先生の資格であり、
その違いを教えるのが、ヴェーダーンタの先生の役割でもあります。
ヴェーダーンタを勉強する上では、
ヨガや仏教などの位置づけをしっかり把握する必要があります。
ヨガの延長線上にヴェーダーンタ、という単純なポジショニングでは、
結局どちらとも理解できていないことになります。
ヴェーダーンタと、ヴェーダーンタ以外の文献(ヨーガなど)は、
アヌバンダ・チャトゥシュタヤからして完全に違うのですから、当たり前ですね。
社会や家庭で与えられた自分の義務をスムーズにこなすために、
丈夫でしなやかな身体と、適度に落ち着いた心をメンテするのには、
ヨガというテクニックは有効ですが、
ヨガは全ての人にとって必要なものではありません。
ヨガ以外にも心身のメンテの方法は多くあるし、
実際、ヨガをしていなくても、
自分の義務をこなすのに十分な心身を持って、
社会や家庭に貢献している人はたくさんいますね。
アヒムサー等の価値を教えるのも、ヨガの特権ではありません。
それらは文献が無くても人間なら分かることです。
(プルシャ・アルタとの繋がりが見えると、その価値観に価値を見出せますが、
プルシャ・アルタを完全に明確にするための文献を、ヴェーダーンタと呼びます。
他の全ての文献は、プルシャ・アルタがまだ明確でない人、
もしくはそれが最終的なプルシャ・アルタでないと分かっている人の為にあります。)
一方、ヴェーダーンタの教える(カルマ)ヨーガには、
イーシュワラの理解が必要です。
イーシュワラについてのプラマーナをヴェーダーンタと呼びます。
「いや、ヨーガ・スートラもイーシュワラを教えている」と言うかもしれませんが、
ヨーガ・スートラのイーシュワラは、ニミッタ・カーラナのみで、
そこにアドヴァイタのヴィジョンはありません。
ゆえに、ヨーガ・スートラの教えでは、
ヴェーダーンタの教えるカルマ・ヨーガに必要な知識は得られません。
ヨガが教える範囲は、「この身体と心の状態」という範囲内です。
(サマーディであろうが浄土であろうが、「範囲内」と言ってのけるのが、ヴェーダーンタです。
アニッティヤであることから、そこに真実が無いことを見極めるのがヴィヴェーカであり、
そこに心理的に期待・依存しないのが、ヴァイラーギャです。)
心身のコンディションには、完璧を求めても時間と労力の無駄なので、
ある程度心身のコンディションが整えば、
心身をいじくりまわすことに時間と労力を費やすのではなく、
自分に与えられた義務をこなし、プルシャ・アルタについて考える時間に回さないと、
人間として生まれた時間がもったいない。。。
ヴェーダーンタの教える範囲は、この身体と心を含む宇宙全体の本質です。
イーシュワラについて、イーシュワラの本質について、
そしてそれが自分の本質であるという事実を知るための手段(プラマーナ)を、
ヴェーダーンタと呼びます。
「いや、ヨガも自分の本質を知るためのプラマーナだ」というのは、
ヨガもヴェーダーンタも知らないのと同じです。
(これはヨガだけではなく、他の知識でも何でも当てはまります。)