Vedanta is meant to correct the wrong thinking and make thinking proper.
ヴェーダーンタは間違った考えを正し、考えを適切にするためにあるのです。
kenopaniṣad 1.8 のコメンタリーより
「私はヴェーダーンタの主題であるブランマンを知っている」
というよりも、
「私はいままで皆と同じように間違った現実観の中で生きていた。
でも、ヴェーダーンタの教えのおかげで、
今ではもう、何がどう間違っていたのかが明確になった。
つまり、もう間違っていない」
と分かること。
そう言えるためには、
まず自分が今までに絶対的に正しいとしていたことを、
「もしかして、相対的には正しいかもしれないけれど、絶対とは言えないかも知れない」
として、一旦脇に置いて、
「では、ヴェーダーンタは何を言っているのか?」
と正しい理解に努めようとする、
ある意味素直な姿勢、
あるいは既成概念を否定できる知的に正直な姿勢、
そのような姿勢が必要になります。
それをシュラッダーと呼びます。
そのような聴く姿勢、シュラッダーを持てること自体が、
多大な高徳の結果、イーシュヴァラのグレース(恩恵)の表れです。
毎日の行いの中でも、
エーカーダシーのようなタパスをするときも、
「この、正しい『学ぶ姿勢』に恵まれますように」
というサンカルパ(目的意志を明らかにすること)をしてから臨むと良いですよ。
ちなみに、どこの誰かは知りませんが、ケーナ・ウパニシャッドのマントラについて、
「知ってるとも、知らないとも言えない」というのは、自分の知識を疑うべきだ、という意味だ。
といったような解釈をして記事にしてウェブに載せている人がいて、
さらにそれを「そーだそーだ、知っている気になっている奴は幼稚だ」と言って
その記事がシェアされているのを見かけたことがあります。
一見、ここで私が書いていることと似ているようですが、
伝統の教えを知っていたら、全く違うことが分かります。
そもそも、「知っているつもりになってるのは、ちがうだろ」といった
人生の経験を通したら分かることを知るために、
わざわざウパニシャッドまで勉強する必要はありません。
このような、「ウパニシャッドとはプラマーナである」という
伝統の教えの基本中の基本さえも知らないがゆえに、
ウパニシャッドのテキトーな解釈が出回るという、良い例でした。
そういうテキトーな解釈ほど、一般ウケするのが、世の常です。
無知と混乱は限りなく深いということを思い知らされることばかりです。
ゆえに、恩恵を願って祈ることは、大事なのですよ。
| 電線に引っ掛かりながらも、どうにかペンジョールを立てようと頑張っているところ。 |