これも、ヴェーダーンタを学ぶ人専用です。
ヨーガを勉強されている人のお邪魔はしたくないので、
パタンジャリのヨーガ・スートラが真理を教えてくれると信じて勉強しておられる方は、
これから先は、読まないでくださいね!!
(もし読んだとしても、ヴェーダーンタを勉強していない人には勘違いしか出来ない内容なので、
読んだことに関して感想や意見、批判を述べることは、必ず謹んでくださいね。)
いままでのヨーガ・スートラの教えに満足できず、ヴェーダーンタにちょっと興味がある方でも、
これを読んだらちょっと引くかもしれないので、お勧めしません!
ヴェーダーンタを勉強したことの無い人が、これを読んで、
ヴェーダーンタとは何かを判断するのは無謀なので、必ず控えてくださいね!
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ヴェーダーンタを学ぶ人の為の、ヨーガ・スートラについて知っておくべき事項
≪絶対に押さえておきたい3つの要点≫
1. ヨーガ・スートラのヨーガは、ギーターの教えるカルマ・ヨーガと同じではありません。
2. ヴェーダーンタを勉強する上で、パタンジャリのアシュターンガ・ヨーガは必要不可欠ではありません。
3. 規律のある生活を教えるのは、アシュターンガ・ヨーガの専売特許ではありません。他にいくらでも方法はあります。
では、説明を始めますね。
パタンジャリのヨーガ・スートラは、
A. アシュターンガ・ヨーガに代表される、規律(集中力を養うためのテクニック)の部分と、
B. 哲学の部分
から構成されます。
A.
ヨーガ(ヨーガ・スートラの教えるアシュターンガ・ヨーガ)の部分は、
ヴェーダーンタを勉強する人の中でも混乱を極めているようなので、
要点をまとめました。
(どれも少し勉強して、少し考えれば当たり前に分かることばかりですが。)
・ ヨーガ・スートラのアシュターンガ・ヨーガは、経験のサマーディをゴールとしている。
経験とは来ては去っていくもの、つまりアニッティヤなので、それはモークシャではありえません。
・ ヨーガ・スートラのアシュターンガ・ヨーガは、集中力を養うためのテクニックのひとつであり、ヴェーダーンタを勉強する人に必須なものでは全く無い。
集中力を養う為の心身のトレーニング・エクササイズは、他にもいろいろあります。
それが必要な人は使えばいい。必要でなければ、使わなくていい。
パタンジャリのヨーガを、単なるエクササイズって呼ぶなんて!
と感じるなら、ヴェーダーンタを勉強する上で必要なヴィヴェーカが足りていない証拠です。
せっかくヴェーダーンタまで来たのに、パタンジャリのヨーガに囚われていて、
筋肉や腱や関節にばかりに常に意識が集中して、
ヴェーダーンタの教えに集中できていない人がいれば、それは残念なことです。
・ ヨーガ・スートラのアシュターンガ・ヨーガは、ギーターの教えるカルマ・ヨーガの代替にはならない。
これは重要です。
カルマ・ヨーガの生活を送る上で、アシュターンガ・ヨーガの規律が必要な人は、オプションとして使えばよい。
アシュターンガ・ヨーガが貢献できる部分は、
カルマ・ヨーガの生活の中での、ごくごく小さな一部であり、しかもオプションなのです。
アシュターンガ・ヨーガなど無くても、カルマ・ヨーガの生活は出来ます。
そんなの無理でしょ!と思われたら、考えが偏っている証拠です。
アシュターンガ・ヨーガなどに規律していただかなくても、
・ 心身的に安定している人も多くいること、
・ アマーニットヴァ、Etcを持って、アヒムサー・思いやりを持って生きながら、カルマ・ヨーガの生活をしている人も多くいること、
・ アステーヤやアヒムサー等は、ヨーガ・スートラの専売特許でないこと、
これらの点は、ヨーガ・スートラに傾倒している人は特に、しっかり認識するべきです。
ちょっと考えたら分かることですが。
・ ヨーガ・スートラは、イーシュワラを知るためのプラマーナではない。
ゆえに、
・ ヨーガ・スートラの教えるイーシュワラは、ヴェーダーンタの教えるイーシュワラとは全く別物である。
ヨーガ・スートラの教えるイーシュワラの理解では、カルマ・ヨーガはもちろん、祈りも何も出来ません。
・ 適切なイーシュワラの理解が無いゆえに、ヨーガ・スートラのアシュターンガ・ヨーガという規律は、メカニカル(機械的)であって、スピリチュアル(精神的)と呼べるものではない。
ヨーガ・スートラに、精神性を期待している人は多いと思いますが、
ヴェーダーンタに来たら、そこはしっかりヴィヴェーカを持てるようにならなければ、
ヴェーダーンタを勉強している意味がありません。
・ ヤマ・ニヤマなどの8つのアンガは全て、アンギーであるニルヴィカルパ・サマーディの為にある。ゆえに、ヤマ・ニヤマを、シャマ・ダマと同じように見做すのは、ゴールが違うので間違い。
ヤマ・ニヤマなどは、生活の中で活かすものなので、カルマ・ヨーガや、サーダナ・チャトゥシュタヤ・サンパッティとこじつける事も出来ますが、それはこじつけです。
そして上にも書いたように、ヤマ・ニヤマなどは、
サーダナ・チャトゥシュタヤを満たす為のものでもなければ、
サーダナ・チャトゥシュタヤを満たすのに十分なものでもありません。
話をややこしくしている発端は、
ヴェーダーンタでは、教えに反しない部分(つまり、ドヴァイタの世界・ヴャヴァハーラの中でダルマに反しない)なら、他の文献を役に立てたら良い。というサンクションがあります。
このサンクションを使って、ヤマ・ニヤマやアーサナ、集中力などがまだまだ不十分な人達に向けてヴェーダーンタを紹介するときには、ヨーガ・スートラの規律の部分を、ヴェーダーンタの勉強につながるように紹介することは許されています。
今までに、ヴェーダーンタの先生がヨーガ・スートラを教えるのを聴いて、内容はヴェーダーンタっぽかったけど?と思われた人がいれば、それはこのサンクションによるものです。
しかし、そのような教え方をする際には、後に混乱が起きないようにはっきりと、
・ 他の学派の文献を使っていること、
・ 哲学的部分は完全に否定されるべきこと、
・ ヨーガ・スートラ自体にはスピリチュアリティは無いこと(正しいイーシュワラが無いので)、
という点を、最初から最後まで、教えの中で明確にしなければなりません。
逆に、これらを明確にしなければ、生徒の理解はずっと混乱したままになってしまいます。
そして、ヴェーダーンタの理解に必要な資質を得る為に
必要なものは全て、ギーターで教えられています。
ヴェーダーンタをきちんと理解したいなら、
ギーターをしっかり、正しい先生について勉強するべきです。
いままで培ってきた、ヨーガ・スートラに対するエモーショナル・アタッチメントが強く、
「ヴェーダーンタを勉強したいけど、
ギーター興味ないし、ヨーガ・スートラ聞かせて」
とヴェーダーンタの先生に要求するのは、誠実な生徒の態度とは言い難いですね。
B.
哲学の部分、つまり真理を教える部分は、
(無数にあるプルシャと、1つのプラクリティ、
そしてサーンミャ・アヴァスターをdisturbするだけのイーシュワラ)
当然ですが、ヴェーダーンタでは完全に「あほちゃうか!?」と否定されています。
ちなみに、ヴェーダーンティンは、間違った「考え」に対して、否定をするのです。
間違ったことを言っている「人間」に対しては、否定せずに、優しく接します。
「1+1=3だ!」 という人がいたら、その人には思いやりと尊敬をもって接するべきですが、
その結論を正しい「知識」として受け入れるのは、、、間違っています。
その人の人間性を否定することはありませんが、
「でもその答え間違ってるけどね」と、きっちり(自分の正直な考えの中で)否定しなければなりません。
(日本では、どんな考えでも受け入れるのがスピリチュアルだとする風潮がありますね!)
・ ヴェーダーンタは独立したプラマーナであり、他の哲学といかなるサポートを得ることは無い。
・ パタンジャリのヨーガ・スートラは、ヴェーダーンタの文献ではない。
・ イーシュワラを知るための手段(プラマーナ)はヴェーダーンタのみである。
・ だからもちろん、ヨーガ・スートラは、イーシュワラを知るためのプラマーナではない。
あとがき
ヴェーダーンタを勉強するときには、今までの意見や結論は一旦リセットして、まっさらな心で聞かなければ、何を聞いても自分の知っている範囲で収まってしまいます。
現代のヨガ界で教えられているヨーガ・スートラには、多種多様な混乱がまさに絡んだ糸(スートラ)のように付きまとっているのが現状です。(日本でヨーガ・スートラを教えている先生の殆どは、サンスクリット語すら知らないばかりか、ノンベジをヨガ教室で食べたりと、初歩的なヤマ・ニヤマさえも実践できていないと聞きます。ヨーガ・スートラをカーマ・スートラと勘違いされているのでしょうか?混乱を極めるのも当然ですね。)
ヨーガ・スートラを既に勉強した生徒は「ヨーガとはこういうもの」「こうあるべき」とかいった考えに、多かれ少なかれ、知らず知らずに固執してしまっているので、そんな混乱の坩堝になっているヨーガ・スートラをベースにヴェーダーンタを教えても、混乱を深めるだけです。
ヴェーダーンタは、ヴェーダーンタの文献で勉強するべき。
至極当たり前すぎて、何でいまさら私がこういうこと言わないといけないのか、情けなくなりますが。
分からないこと、不明な点があれば、いつでも質問してくださいね。
繰り返しますが、ヴェーダーンタをきちんと勉強することもなく、
ここに書かれていることを批判するのはお門違いなので、慎んでくださいね。
あと、ここでは事実を述べているだけで、
あなたが「賛成」 したり「反対」したり出来るような「意見」を述べているのではありません。
「事実」と「意見」がごっちゃになっているのも、事実を見えなくさせている、
最近の日本の恐ろしい風潮です。
ナマステー。
Om tat sat