まず、サンスクリットの学習法には大きく分けてふたつある、
ということを知っていただきたいです。
「本物」と「まがい物」、と言いたいところですが、もうちょっと言葉を選ぶと:
A 伝統的なサンスクリットの知識
B 植民地的サンスクリット研究(西洋と、それに追随する日本の大学)
のふたつです。
なぜ分けるのかというと、このふたつは、
ソースとする文献も、文献の受け取り方・姿勢も、
そして目指している方向も、全く違うので、
これらを「全く別のもの」と捉えて、住み分けた方が、
学習者の混乱が少なくて済むからです。
この違いは何か。大まかにいうと、
知識の拠り所が、
A 伝統に沿って何千年も受け継がれてきたものか、
(何千年も途切れることなく伝承されたヴェーダの知恵の伝統に生きる先生方と、
さらに、パーニニなど伝統文献の原文と、それに付随する伝統的教授手法)
それに対して、
B 植民地的時代に、ヴェーダの文化を破壊することを目的とした、
西洋のインド学者たちの自己流の、伝統を知らない・無視した研究をもとにしているか、
の違いです。
どうして今ここで、私がこのようなことを書いているのかというと、
今までに何度か、植民地的サンスクリット研究者の心無い人々から、
攻撃的な言葉を公の場でいただいたことがあるからです。
テリトリーを荒らされた、と思われたのでしょうかね。
このようなことから、
素直にただ、サンスクリットに興味を持って、「本当のことを知りたい!」
と願っている人たちが、彼らのような植民地的学者達に混乱させられたら、
もったい!と心配してしまいます。
それと、日本ではまだまだ、既存のサンスクリット語の参考書の殆どは、
植民地的研究法のもの、というのが現状です。
とても素敵な香りのする、パーリジャータ |
私はインドの伝統に沿ってサンスクリットを学び、教えています。
ここで皆さんに知ってほしいことは、
既存の日本の大学でのサンスクリット語研究は、伝統に沿っていない
ということです。
例えば、
サンスクリット語は発音が命なので、それを保護するために、
「シックシャー 」という学問が、ヴェーダーンガの一番最初にあります。
そして、ヴェーダの詠唱も何千年も前から、今世紀まで受け継がれていて、
毎日テンプルで詠唱されています。
日本の大学の研究者たちは、そんな初歩的なことすら知らずに、
「サンスクリット語は現在話されていないので、
正確な発音なんて分かりっこない!」と、平気で言ってきます。
その発言が彼らの無知をさらけだしているのす。
彼らにとってサンスクリット語は死語であり、
遠い昔のことを、手探りで知ろうとしているのです。
ちなみに、こういう人たちを伝統では、
アンダ(盲目の人の)・パランパラー(伝承)
= 盲目の人が、盲目の人々を率いて、突き進んでいる
と呼びます。
うちの庭にて。 |
今までの日本では、サンスクリット語を勉強したければ、
このような大学の研究者に頼る他に、あまり方法がありませんでした。
しかし、時代の変わった今は、行動力と言語力と、少しのお金さえあれば、
本場インドで、本物の伝統を知る学者から直に勉強することが出来ます。
そして、日本でも、インドでも、世界中で教えている。
私のように、本場インドで仕込まれ、認められ、インドで教えながら、
日本にも本やウェブという媒体を通して発信しているという存在は、
彼らにとっては、彼らの存在価値自体を揺るがしてしまう存在であるらしく、
彼らお得意の権力的なものの言い方と、ダルマや品格の無さによって、
直接的・間接的に、好意的でない発言をいただくことが、たま~にあります。
それは、私の著作物を、彼らが結構真剣に受け止めている証拠であもるので、
褒め言葉として受け取っていますが。
文献が人類に何を教えようとしているのか、本物を知りたい。
何のためにヨーガをしているのか、
何のために家庭や社会の義務を果たしているのか、
何のために生きているのか、幸せとは何なのか、愛とは何なのか。
真実を知りたい。
このように願う人々が、意味もなく話をややこしくするのが好きな、
植民地旧型の人々に阻まれることがありませんように!