長らくお待たせいたしました!ヴィシュヌ・サハッスラナーマ(ヴィシュヌ神の千の名前)の本編(ストーットラ)の第一部です。
長いので、本編だけで四部作、その前後にひとつずつで、全六部になりそうです。
まずチャンティングを先生について学び、自分の部屋で練習用にこのYoutube動画をご活用ください。
皆さんが音に慣れた頃、ナーマ(名前)の意味をひとつずつ見ていくクラスをしていきますね。
この千の名前は、全てサンスクリット語で、文法的にも展開できる、意味のある言葉です。
この世界を、この自分を、正しく認識するための、意味のある言葉です。
ヴェーダの文化で教えられている神様の名前は全て、この世界とこの自分を正しく認識する為にある、理解されるべき、意味のある名前です。
ヴェーダのヴィジョンでは、神様とは、信じるだけの対象ではなく、不可知なものでもなく、その存在を疑うことすらできない、今ここにいる自分の意味として、理解するための対象です。
神様が、今ここにいる自分とは別に存在しているのなら、不完全な存在になりますから、神様と呼ぶに値しません。
今ここにいる自分が本質的に不完全な存在なら、神様にだって救いようのない存在です。
あなたは自分のことを不完全な存在だと長年信じて生きてきましたが、ヴェーダのヴィジョンでは、本当のあなたはふたつとない完全無欠な存在です。だからヴェーダは聖典と呼ばれるに相応しいのです。
この私が完全無欠な存在?そんなわけない!
しかし、考えてみてごらんなさい。
不完全なのは変わりゆくこの身体や心であり、それを何年たっても変わらずに見ている私がいる。
どちらが本当の私でしょうか?
この、今ここにいる、変わることなく、変化を見続けている、「本当の私」の存在は、疑うことすらできない。
疑おうにも、疑う前に、既に存在しているのが、この私なのですから!
その、いまここにいる私が、何者なのか?
この身体や心でもなければ、何者なのか?
知る由もない。なぜなら、知る術がないから。知る手段がないから。
「自分とは本質的に何者なのか?」の探求を、
憶測に任せて考え続けたら、永遠に答えの出ない「哲学」の始まりです。
物理に本質を求めると物理学です。生理や心理に本質を求めている人も多くいます。しかしそれらは変わりゆく不完全なもの。
知るのを諦めて、身体が死んでしまっても天国に行って楽しい思いできるということを信じていれば気が楽だからいっか、ということにして本質に関しては死ぬまでずっと思考停止にしておくか?
知るのに必要なのは、瞑想でも体験でもなく、知る手段なのです。
ヴェーダの最後の部分(ヴェーダーンタ)は、本質とは何かを知る為の手段であり、ヴェーダーンタを通して見える私の本当の姿は、完全無欠な存在です。
私を不完全で惨めで儚い存在にさせている、あらゆる制限から自由な存在です。
原罪を背負っている存在ではありません。
布教に務めて仲間を増やさないといけない不安な存在でもありません。
何にも依存しない、ふたつとない真実が、本当のあなたなのです。