2017年5月4日木曜日

パンチャダシー 1章1節

書き始めた文献が最後まで書き終えられ、書かれた文献が失われることなく、それを読む必要と資格のある人の下へと届くようにと、文献の一番最初には祈りの句を捧げるのが伝統となっています。祈りの句には、ブランマンの本質を思いおこすことにより恩恵を得ようとするものと、デーヴァターへ向けて捧げられるものがあります。ここでの祈りの句が捧げられているデーヴァターは、著者 विद्यारण्य-मुनि の先生である श्री-शङ्करानन्द です。ヴェーダーンタの先生は、デーヴァターと同等とみなされています。なぜなら、ヴェーダーンタの先生の直接の恩恵、つまり ब्रह्मविद्या の教えを授かってこそ、生徒の生まれて来た意味が満たされるからです。パンチャダシーは、先生に対してのナマスカーラを表現するシュローカから始まります。
नमः श्रीशङ्करानन्दगुरुपादाम्बुजन्मने । सविलासमहामोहग्राहग्रासैककर्मणे ॥ १.१॥
नमः 0 श्रीशङ्करानन्द-गुरु-पाद-अम्बुजन्मने 4/1 । सविलास-महामोह-ग्राह-ग्रास--कर्मणे 4/1
多種多様の形で表現されている巨大な混乱というワニを食べ尽くすのが唯一の仕事である、シュリー・シャンカラーナンダという私の先生の蓮のような足元に、ナマハ

नमः は尊敬、つまり自分がそれに対して高い価値観を持っていることを表し、尊敬を表現することによって、グレース(恩恵)を受けるための言葉です。नमः をする対象は、第4格で表されます。このシュローカにはふたつの第4格で表されている言葉があります。どちらとも、ब्रह्मविद्या を教える先生の足元を指している言葉です。
パンチャダシーを著した विद्यारण्य-मुनि の先生(गुरु)は、श्री-शङ्करानन्द という名前で知られています。श्री とは普通、あらゆる意味での豊かさの原因である लक्ष्मी を指しますが、ここでは主題にふさわしい意味での ब्रह्मविद्या を指します。शङ्कर とは、幸福(शम्)をもたらす者(-कर)と言う意味です。一度手に入れれば、もう何も手に入れるものが無い、それ以上のものの無い幸福、すなわちモークシャである शम् は、自分自身がその幸福であるという知識、つまり ब्रह्मविद्या であり、それを与える人が、グルと呼ばれる ब्रह्मविद्या の先生です。その先生は条件や制約の無い幸福である आनन्द そのものです。先生に対して尊敬を表す場合は、自分の姿勢を低くして、先生の足元(पाद)に礼をし、低くした自分の頭に恩恵を与えてもらおうとするのです。そのような尊敬する人の足元は、蓮の花(अम्बुजन्मन्)に例えられます。水(अम्बु)の中で生(जन्मन्)を受けるので、蓮の花は अम्बुजन्मन् と呼ばれます。
先生の蓮の花のような足元の栄光を讃える形容詞が次の言葉です。विलास とは、多彩な光があらゆる方向に放たれるプリズムに例えられます。महामोह は巨大な混乱です。静かに混乱しているのではなく、その混乱が様々な形で表れているので、महामोह に「विलास と共にある」という意味のसविलास という形容詞が付きます。ग्राह とはワニのこと。一度噛みつくと水の中に引きずり下ろすまで放しません。そのようなワニを食べること(ग्रास)が唯一の(एक)仕事(कर्मन्)である人を、सविलास-महामोह-ग्राह-ग्रास-एक-कर्मन् と呼び、それはヴェーダーンタの先生を表しています。

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