ヨガに限らず、サンスクリットの言葉は、
様々な文献の中で、様々な違った意味で使われているので、
使われている場所によって、その意味の解釈を変えて行く必要があります。
問題は、今まで知っていた「ヨーガ」の意味の範囲内、または延長線上で、
ヴェーダーンタで使われている様々なヨーガの意味も解釈しようとしているところにあります。
ゆえに、ヴェーダーンタを「ヨーガのゴール」として紹介するのは危険だなぁ~と思っています。
まだヴェーダーンタを勉強していないヨーガの生徒に、
「ヴェーダーンタはヨーガのゴールです」と言ってしまうと、
既存のヨーガの理解が何であれ、その延長線上にヴェーダーンタを当てはめようとし、
混乱が起きます。
ヴェーダーンタの文献であるギーターの教える「ヨーガ」の定義は、
他の文献で教えられているヨーガの意味とは全く別物なのに、
それぞれの人が既に抱いているヨーガの意味と重ね合わせていたら、
正しい理解はされません。
ヴェーダーンタの教えを聴くときは、
ヨーガに限らずあらゆる言葉において、
既存の概念はいったん横に置いておく必要があります。
それが出来ていなければ、
何十年聴き続けても、自分の既に知っている範囲内での理解になってしまいます。
Yoga=エクササイズとして認識している人なら、
ヴェーダーンタを聴いているうちにすぐに辻褄が合わなくなるので、
ヨーガの意味を訂正していくのは容易ですが、
一方で、ヨーガ哲学や精神世界について先に勉強してきた人が、
ヴェーダーンタを聴く場合は、修正作業はとても難しくなります。
プージャ・スワミジは、
「精神世界について何も知らずにヴェーダーンタに来れた人はラッキー」
とよく仰っていました。
それだけ、先に植え付けられた概念というものは、正しい知識の理解を阻むものなのです。
追記:
そもそも、ヨーガにヴェーダーンタを関係づける必要なんて全然ありません。
ヨーガを勉強しているからって、ヴェーダーンタを勉強する必要はありません。
ヴェーダーンタは、真実を知りたい人が勉強するものです。
ヨーガをやっている人に、ヴェーダーンタを広めようとしたり、
真実を知りたい人が、ヨーガに行ってしまうような大通りが、
この100年ほどで出来上がってしまったことに、この混乱の原因があると見ています。