2017年2月3日金曜日

ヨーガ+ヴェーダーンタで、今まで何度か受けた質問

私はよく、ヨガとヴェーダーンタの混同・混乱について書いていますが、
その理由は、質問をされたり、その手の混乱を目の当たりにすることが多いからです。

(それと、遠いインドの地で教え、なんのしがらみもなく、好きなこと言えるってのもあるでしょうね。)

私個人的には、ヨガは、最短時間・最小スペースで、身体を良いコンディションに保ってくれる
とても良いテクニックだと実感しています。
(それゆえに、教えているならともかく、ヨガに一日何時間もかけて、他の事が出来なくなってしまうのは本末転倒ですよ~。)

ヨガと関係の無い世界でヴェーダーンタを勉強してきたので、
日本では何でこんなにヨーガと結びつけられて混乱しているの?と、
正直びっくりしています。

問題の原因は、もちろん、日本では、ヴェーダーンタは主に、ヨガをしている人を対象にして教えられているからだと思われます。


ヴェーダーンタを教える先生として、伝統の中でも当然にされていることですが、

1) ヨーガはプールヴァ・パクシャであると明確にすること、
2) ヨーガの教えるテクニックの利用範囲を明確にすること、
3) ヨーガとヴェーダーンタでの重複している用語による混乱を避けること、

という、これらの点は、
現代においてはなおさら、気を付けなければならないのだな、と痛感しています。

もしヨガ教室でヴェーダーンタを教えるように頼まれたら、わたしなら最初に必ず、
「たまたまヨガ教室から呼ばれたから教えているだけで、
ヨガをしている人しか学べないからヨガ教室で教えているのではありません。
ヴェーダーンタは全ての人のゴールが何かを教える文献です。」
と土台をはっきりしてから教えますね。
そう言っておくだけでも、ある程度の混乱は避けられるように思います。
それをはっきりさせなかったら、「ヨガ教室で教えられているのだから、
ヴェーダーンタンは、ヨガを実践している人の為にあるんだ」
と刷り込みされるのも仕方ないと思います。


質問) ヨーガもモークシャを教えているんじゃなかったの!?

回答) そのモークシャが何なのか、経典によってバラバラなのです。

ヨーガも、サーンキャもニャーヤもヴァイシェーシカも、
キリスト教もイスラム教も、仏教も、全部、
彼らなりの理解での「モークシャ=絶対的なゴール、永遠、真理とか」を、真剣に説いてます。

彼らは、自分たちの聖典(ヨーガ・スートラとか、聖書とか)が、
彼らのいうところのモークシャを説いているとしています。そりゃそう、当たり前ですよね。

でも、彼らに、「あなた達の言うモークシャって実際どういうこと?教えは何?」と訊くと、
それは、「瞑想などによる体験によって到達できるもの」
「信じて審判してもらって天国に行くこと」
「敵を倒す為に自分は散って、神様に喜んでもらうこと」「黄泉の国に行くこと」等々と、
いろいろな答えが返ってきますが、
ヴェーダーンタの教える「自分の本質がブランマンであることをただ知る事のみ」という答えは返ってきません。
教えには様々な違いがあり、様々な種類があるのです。同じではありません。

ゆえに、ヨーガの教えているモークシャと、ヴェーダーンタの教えているモークシャは似ても似つかない別物です。
ちゃんと勉強して、正しく理解していれば、違いは明瞭です。

ちなみに、宗教や文献に限らず、人間の全ての追求の後ろには、モークシャがあります。
人間関係にモークシャを求めている人、財産にモークシャを求めている人、
ファッションや健康・ダイエットにモークシャを求めている人、、、
そして、 健康・長寿こそがモークシャ(人間最大の達成)と説く人もいますね。

これで、「ヨーガも、モークシャを追求するためにあるって思ってたのだけど~?」
の意味がご理解いただけたかと思います。。。



質問) ヨーガはアンタッカラナ・シュッディに必要でしょう?

回答) そのヨーガとは、どのヨーガですか? 
ギーターの教えるカルマ・ヨーガと、ヨーガ・スートラの教えるヨーガは、全く別物です。


アンタッカラナ・シュッディに必要なのは、カルマ・ヨーガ、
つまり、イーシュワラ・アルパナ・ブッディと、イーシュワラ・プラサーダ・ブッディという理解にもとづく姿勢をもって、自分に与えられた義務を果たしていくことです。

ヤマ・ニヤマ・アーサナ・プラーナーヤーマ等のヨーガ哲学のヨーガと、
このカルマ・ヨーガは、全然別物です。

イーシュワラ・アルパナ・ブッディと、イーシュワラ・プラサーダ・ブッディを教えるには、
अभिन्न-निमित्त-उपादान-जगत्-कारणम् ईश्वरः という教えが無ければ成り立ちません。
それを教える文献のことを、ヴェーダーンタと言います。
ヨーガの文献では、このようなイーシュワラは教えられていません。
教えられているものが違う。だから別の名前で呼ばれているのですよ~。
ヨーガの教えるイーシュワラは、ヴェーダーンタの教えるイーシュワラとは、全く違うものです。

ヨーガ哲学のヨーガを全く知らず、実践していなくても、カルマ・ヨーガの生き方は出来ます。
しかし、ラジャスやタマスの傾向が強すぎて、カルマ・ヨーガどころではない人には、
ヨーガ哲学のヨーガの実践によって、身体と心を落ち着かせることが必要かもしれません。

その人のプルシャアルタが何であれ、落ち着いた心と健康な体を作り、維持するテクニックを知って実践することは良い事です。

ヨーガは心や身体のコンディションを整えるテクニックのひとつです。
他にもいろいろなテクニックが世の中にはあります。

ヴェーダーンタに辿り着き、理解するまでの過程で、
ヤマ・ニヤマなどをヨーガ哲学によって教えてもらう必要があった人もいれば、
ヨーガ哲学に教えてもらうことなく、良識やその人の持ち前の心と身体の安定により、
ヴェーダーンタに辿り着く人も、大勢います。



混乱という結果を見て、その原因を私になりに推測すると、
アシュターンガ・ヨーガに、ヴェーダーンタのカルマ・ヨーガを重ね合わせて、教えられている?
ような気がします。

ヴェーダーンタの勉強に必要なアディカーリットヴァ(ヴィヴェーカ、ヴァイラーギャ等)がまだ無いけれども、ヨーガ・スートラを勉強している人達には、ヨーガ・スートラが教えているサーダナを、ヴェーダーンタの勉強へとつながるようなサムスカーラを持ってもらえうような教え方をする、という教え方は、サーダナの部分で、真理に触れないのなら、一応やってもOKなようです。
(シャンカラーチャーリヤのブランマ・スートラ・バーシャより)

例えば、既に仏教の教えに沿って生きている人達に話す場合に、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧といった概念を、ヴェーダーンタの勉強につながるように説明する、というのと同じことです。

私は個人的に、そこまでして、より多くの人にヴェーダーンタを知ってもらおうとは思いません。

真理が知りたい、ヴェーダーンタを聴きたい、と言う人がいるなら、
当然、ヴェーダーンタの文献を教えます。

良心と常識のある人なら、ヤマ・ニヤマなどは教えられなくても実行していますし、
良心と常識のある行動とモークシャの繋がりを教えられるのは、ギーター等のヴェーダーンタの文献であり、ヨーガでは(一つのジャガットカーラナ・イーシュワラが無いゆえに)不可能です。
普通にギーターだけ勉強していれば、モークシャに必要なものは全てそこにあります。
つまり、モークシャとしての知識、そして知るための準備としてのヨーガは、
ギーターで全て教えられています。
ヨーガ・スートラに補足してもらう必要はありません。

ちなみに、このことについて、プージヤ・スワミジの最も主要なお弟子さんであるチェンナイのスワミジにアドヴァイスを伺った際、彼は、たとえそうだとしても、ヨーガ・スートラをプールヴァ・パクシャとして以外に教えることは絶対にない、と仰っていました。


結局、
「ヨーガ・スートラ教えます」とアナウンスすると、300人集まるのに、
「ギーター教えます」とアナウンスしても、10人も集まらない、
というご時世を表しているのだと思います。

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