「意識」に、「純粋な」という形容詞を付けて、
「純粋な意識」として使い分けているのだから、
これらには違いがあるばずだ、ということですね。
ヴェーダーンタの勉強を続けている人に向けて、
このふたつの言葉が使い分けられている所以を説明しますね。
普通、「意識」という言葉は、
~を意識する、意識がある、~という意識がない、
といったように、日常的に使われる言葉で、
「意識」という一般的な言葉の使われ方にも、様々な違いがありますが、
あらゆる使い方に共通しているのは、
マインドの状態、ということでです。
対象物を見ているマインドの状態、自分の認識内で機能しているマインドの状態、
ということですね。
状態というものは変わり続けるものです。
一方、「純粋な意識」と言う場合は、
状態ではなく、あらゆる状態を支えている、変わらない土台である、
自分自身である、意識です。
マインドの状態を意識的にしているもの、その意識という存在そのものです。
それが、自分・私、という時の、本質的な意味です。
「純粋な」という形容詞をつけているのは、
マインドのあらゆる変化に影響されず、触れられていない、ということです。
幼少の頃から、青年になって、歳を重ねていきながら、
身体も変わり、心の状態も変わり、それを通して様々な経験を重ねますが、
それら全ての経験を通して、変わらずに居る、そう、そのあなたのことです。
それは、純粋に、意識という存在ですね。
怒りや怖れ、憎悪や孤独感といったマインドの中にある感情が、感情として、認識できるのは、
マインドという舞台で繰り広げられるドラマを照らし出している、意識の光りがあるからです。
光りは何を照らし出していても、その対象物から影響されたり汚されたりはしません。
人は皆、感情=自分という自己認識をしていますが、
本質的な自分は、純粋な意識の光りであり、マインドで起きている感情などの出来事によって、染められたり、揺さぶられたりするものではありません。
この回答がお役に立てれば幸いです。
ヴェーダーンタを伝統を知る正しい先生の下で、聴き続けてください。