「群盲象を評す」とは
私がヴェーダーンタの勉強を始めた頃に聴いた、
「知る対象物に合った、適切なプラマーナを使わなければ、
それを正しく知ることは出来ない」
ということを教える時に使われていた例え話なので、
てっきりヒンドゥー文化のものだと思っていましたが、
ジャイナ教、仏教、イスラム教、さらにキリスト教でも、
説法や説教で引用されていると、最近知りました。
そりゃ、ヒンドゥー教だったらもちろん、陸続きなんだから、
仏教経由で東に行って東南アジアや日本まで行ったり、
西側にも広がって当然ですよね。
別にこの例え話のオリジナルのソースがヒンドゥー教じゃなくてもいいですしね。
いろんなヴァージョンがありますが、話はだいたいこんな感じです。
一匹の大きな象の周りに、目の見えない人が何人か集まって、
(もしくは暗闇の中に何人かが集まって、)
自分達の前にあるものが何か知ろうとしていました。
目で見て知ることが出来ないので、
いろいろ触ってみた感触で、それが何かを結論付けます。
象の足を触った人は、「象とは、太い柱のような生き物です」 と言い、
象の鼻を触った人は、「いやいや、象とは、大蛇のようです」 と言い、
象の胴体を触った人は、「象とは、大きな壁のようだ」 と言い、
象のしっぽを触った人は、「象とは、長いロープのようだ」 と言って、
結局みんなバラバラの結論に辿り着きます。
「群盲象を評す」の例え話が「群盲象を評す」のようになってる?
そもそも、全体を知るためのプラマーナに欠落した人達にとって、
この例え話が何の役に立つのだろうか?
と、正直とても不思議に思いました。
そういうわけで、それぞれのヴァージョンにおいて、
例え話が教えようとしている教訓を斜め読みしてみました。
「人それぞれ限られた知る力で得られるのは、小さな知識だけ。
それで全体像を知ってると言うのは、危険である」
ってだいたいこんな感じだったと思います。
それってヴェーダーンタでも同じ?のようにも見えますが、
決定的に違うのは、
知りたいものに見合った、
正しいプラマーナがなければ、
間違ったプラマーナをいくら使っても、
正しい知識は得られない、
と言うことです。
赤いバラの、「色」を知りたければ、
「目」というプラマーナを使わなければなりません。
いくら触っても、匂っても、目を開けない限り、
それが赤だとは分かりません。
同じことが群盲象を評すの例えで教えられているのです。
(ヴェーダーンタではね。)
あらゆる経験は、対象物を知るためのプラマーナであって、
主体の本質を知るためには出来ていません。
自分の身体はもちろん、感覚も心も考えも、対象物なのですから、
いくらミラクルな経験をしても、思考を深めても、瞑想を深めても、
どこまで行っても、対象物を見ているだけです。
それはちょうど、目が見えない人達が、象を触っているのと同じ。
必要なのは、全体を見る目というプラマーナであって、
象を触った感想を100集めても、象にはなりません。
この、「それぞれの対象にはそれぞれ適切なプラマーナ」
というコンセプト無しに、いくら象を触り続けても、
それは単に「不適切なデータの寄せ集まり」になってしまいます。
不適切なデータをどれだけ集めても、適切な知識は得られません。
「自分の本質とか、世界の本質とか、真理とか、
限りある知性を持っている人間には絶対に無理!」
というのも尤もですが、それは、
もう一つのプラマーナの可能性を知らないが故の結論です。
柱と蛇と壁とロープを組み合わせても、象にはなりませんし、
「いやいや、柱と蛇と壁とロープを組み合わせてたのが象じゃん?」
といっても、まず象の全体像を「見る」、「目」というプラマーナが無ければ始まりません。
目で見て、全体像を知って、初めて、柱みたいなのが足で、、、と言えるのです。
プラマーナというコンセプトを欠いた、さまざまな人々によって、
様々に解釈されている様はまさに、
「群盲象を評す」の例え話が「群盲象を評す」のようになってるじゃないか!
と思いましたが、他の解釈を読んでみて、比較することによって、
私の場合は、この例え話がうまいこと付いてる点を、より良く見ることが出来たので、
それはそれなりに私にとっては有用な点があったと感謝しております。
プラマーナが何か分かっていないから、何でも結局、「真実は体験するもの!」としか言えなくなってしまいます。
これが地球上の人類皆共通の混乱ですね。