2017年5月10日水曜日

なぜ「自分の本質」を知る必要があるのか?


この世の中、全宇宙、過去未来、天国地獄異次元なんでもいいですが、

ありとあらゆる全ては、たった二つの親密な言葉のみで言い表すことが出来ます。

それは、

対象物」と、それを対象化している「主体」です。


対象物とは、自分が見ているもの、聞いているもの、

考えていること、感じていること、思い出していること、

つまり、あらゆる経験です。


経験が経験となるのは、主体があってのことです。

主体とは、自分、そう、あなたです。

魂とかいう言葉は必要ありません。

全ての人が「私」と認識している、シンプルに自分のことです。


ありとあらゆる全ては、このふたつのカテゴリーに分けられます。

自分の知らないものでも、それらは対象物です。

知らないものという対象物であり、知られたときにも、やはり対象物です。


主体は対象物を対象化し、

自分の持っている

「好き・魅かれる」と「嫌い・離れたい」

の判断基準と照らし合わせ、

快不快を味わい、

それが原動力となって、

毎日なんらかの行動をして、一生を終えます。


サンスクリット語で「対象物」は、

「束縛するもの」という意味から派生しているだけに、

対象物をを対象化して、快不快を味わっている主体は、

文字通り、対象物に縛られ、対象物を追いかけ続ける人生を送ります。


しかし、よく観察してみると、

主体が本当に欲しいのは、

対象物を手に入れることによって引き起こされる、

「自分自身に心地良い自分」であり、

対象物そのものではありません。


ここまでの思考のステップが明確になってくると、

幸せになる、という課題を満たすためには、

対象物を追いかけるのではなくて、

主体である自分自身に目を向けるべきではないのか?

という、幸せを探す場所の根本的な改革が始まります。


ゆえに、主体である、自分自身とは何なのか?

の問いかけが始まるのです。


しかし、「自分自身を知る」と言っても、

人間として知り得る手段を全て使ったところで、

「対象物」の領域からは出られません。


もうひとつ、自分の外にある、知る手段が必要です。

自分自身の顔を見るのにさえ、どうあがいても、自分だけではどうにもならないゆえに、

自分の外にある、鏡という知る手段を使うしかありません。


この鏡が、自分の本当の顔を映せるのか?

という疑問は、覗いてみないことには証明できません。

鏡を覗いてみて、手を頬に当ててみたり、まばたきしてみたり、

そもそも自分の視力に問題があれば矯正したり、

そうやって、鏡に映し出された自分が本当の自分である、

と確信を持てるようにするのです。


ヴェーダーンタは、人間に向けて教えられた言葉の集まりで、

自分を知る手段であるとされます。

ヴェーダーンタの教える自分の本質とは、

「この宇宙の全ての本質、そして宇宙の創造主の本質は、あなたです」

と教えています。

この全宇宙の本質が私の本質?

創造主って、全知全能の神の本質が私の本質?

これを事実として受け入れられないのが普通の人です。


普通の人というものは、

「私とは、日本人で、女性で、娘であり、元会社員であり、趣味は△△で、、、」

というのが、本当の私だとして生きています。

それって本当の自分?と聞かれても、

「本当の私?実は○○が好きで、XXは嫌いで、

実は、こういう神秘的な経験をしたことがあり、、、」 云々。


しかし、「これが自分だ」と認識している全ては「対象物」ではありませんか。

あなたは「主体」なのですよ。


猫を飼っていて、猫と一緒に住んでいて、毎日愛猫を対象化しているからといって、

「私は猫です」

と言いだしたら、もう、普通の人を逸脱していますよね。

しかし、国籍や性別、嗜好、思想、経験、などの対象物を持って来て、

「私は~~です」

と言うのは普通だとされています。

ちょっとくらいおかしくても、皆も同じだったら、このクレイジィな世の中では普通なのです。

もちろんそれらは、自分に与えられた身体や心の属性なので、

普通と呼ばれるべき根拠はありますが。


しかし、「対象物」と「主体」という、はっきりと二分化できているなかで、

「主体である自分は対象物です」

と言うのは矛盾しています。


では、

「全宇宙の本質、そして創造主である神の本質は、私です」

と言うのは、矛盾していないのか?

明らかに矛盾しているように見える点は、本質的なのか?


このような問いかけを理論的に展開するのが、

ヴェーダーンタの勉強の主要な側面です。


私はヴェーダーンタをきちんと勉強するまでは、
自分の本質なんて知ることに何の意味があるの?と思っていました。
そんなことを知らなくても、世の中十分に生きていけますからね。

ブリハダーランニャカ・ウパニシャッドでは、
यो वा एतदक्षरं गार्गि अविदित्वा अस्मात् लोकात् प्रैति स कृपणः ।
「それを知らずにこの世を去る人は、吝嗇(どケチ)です」
と教えています。
なぜなら、人間の唯一の財産であるबुद्धि(知性)を、
知性をもってして得るべきもの、
つまり、自分の本当に欲しいものを手に入れる為にきちんと使わず、
財産とか人間関係とか権力名声とか身体のメンテとか美容とか、
あんなこと言われたとか、こんなことしてくれなかったとか、
そういう、けち臭い、ちんまい事にしか使わなかったからです。

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