まず書評を一言でいうと、面白かった!お勧めです!
ベタですが、本当です。
物理的に観察できるものの中で、
究極的に最大のものを研究するのが、宇宙物理学。
究極的に最小のものを研究するのが、素粒子物理学。
物理的に最大である宇宙が、物理的に最小である素粒子の組み合わせによって、
形成されていく過程が説明されています。
宇宙のはじまり (著:多田将)
高エネルギー加速器研究機構で素粒子を研究されている著者が、
大阪人独特の語り口調で、面白くてリレートしやすい例を出しながら、
やさしく説明してくれています。
やっぱり大阪人には大阪人の説明がすんなり入る。
毎日経験しているこの物理的な世界を、
より根本的に客観的に認識するのに役立つ、
そんな知識を、彼がやさしく説明してくれる本がもっとあれば、
もっと読みたいなぁと思います。
はじまりにおいて、著者は、
それならヴェーダーンタ勉強したらいいのに、と思います。
変なスピリチュアルに全く毒されておらず、
ただただ客観的に論理的に、本質の探究をされている方ですから、
ヴェーダーンタを勉強するには理想的です。
すんなり分かってもらえるような気がします。
そして最後にも、
と仰って締めくくっておられます。
全ての学問は、哲学の延長であるのだから、終わりがそうなるのは当然です。
(こちらも読んでみてください。
哲学とは? 科学(自然・人文・社会)の範囲、宗教の範囲、哲学の範囲)
「究極的なものを知りたい」
それが哲学です。
主観に閉じこもってあれこれ言葉を並べて人生論的な「俺哲学」を作りあげるのは、
本来の哲学のあり方に反します。
ここ2500年ほどの哲学の歴史はまさに、俺哲学一直線に逸れ続けている歴史ですが。
宇宙物理学でも素粒子物理学でも、最初の問いかけは哲学から始まります。
物理的に観察できる範囲で哲学する=本質を問うのが、科学です。
ゆえに当然、「時間と空間の果ての外へは行けない」
という壁にぶち当たります。
物理的なものは、時間と空間の中にありますから。
時間と空間の中にないものとは、、実は、自分です。
時間と空間を対象物として観察できている、
「今ここ」の意味である自分です。
それはマインドではありません。みんなここよく間違うけど。
マインドを対象化している、マインドを通して現在過去未来の世界を見ている、
今こことしての存在である自分です。
自分が二次元の世界にいたら、二次元の世界は観察できない。
自分が、二次元を超越した、三次元目にいる存在だから、
二次元の世界を観察できる。
自分が三次元の世界を観察できるのは、
自分が、三次元を超越した、、、どこにいるから?
どこでもなく、自分はまことに、今ここにいます。
今ここの意味として存在しています。
今もここも、時間や空間の最小単位ではなく、
時間や空間といった概念を観察している、
その次元の中にはいない存在。
なんかオカルトのように聞こえるけど、論理から外れていません。
脳科学界がぶち当たっている壁も同様です。
脳内で起きている様々な物理的な脳波を観察している、
その意識という存在は観察できない。
なぜってそれは、自分だからさ。
観察される必要もない、今ここである自分。それは意識そのもの。
時空を超えた存在である、
「今ここ」の意味である、
自分という、ただただ意識である存在。
究極を突き詰めてぶつかる壁は、プラマーナ(知る手段)の壁。
その先にあるものを知るためには、
知覚と推論から独立した、もうひとつのプラマーナが必要。
ヴェーダーンタを、そのもうひとつのプラマーナとして使ってみると、
その先にあると信じて求めていたものが、
今ここの自分だったことに気付かされます。
知識の追求、幸せの追求、全ての追求が終わってしまうところは、
自分だった。ということを知るためのプラマーナです、ヴェーダーンタは。
ベタですが、本当です。
物理的に観察できるものの中で、
究極的に最大のものを研究するのが、宇宙物理学。
究極的に最小のものを研究するのが、素粒子物理学。
物理的に最大である宇宙が、物理的に最小である素粒子の組み合わせによって、
形成されていく過程が説明されています。
宇宙のはじまり (著:多田将)
高エネルギー加速器研究機構で素粒子を研究されている著者が、
大阪人独特の語り口調で、面白くてリレートしやすい例を出しながら、
やさしく説明してくれています。
やっぱり大阪人には大阪人の説明がすんなり入る。
毎日経験しているこの物理的な世界を、
より根本的に客観的に認識するのに役立つ、
そんな知識を、彼がやさしく説明してくれる本がもっとあれば、
もっと読みたいなぁと思います。
はじまりにおいて、著者は、
突然ですが、僕はどんなジャンルでも「究極のもの」が大好きです。と仰っているので、
それならヴェーダーンタ勉強したらいいのに、と思います。
変なスピリチュアルに全く毒されておらず、
ただただ客観的に論理的に、本質の探究をされている方ですから、
ヴェーダーンタを勉強するには理想的です。
すんなり分かってもらえるような気がします。
そして最後にも、
果てのない空間というのは、そのなかに存在している人からは、想像がつかないものだと思います。外から眺めて初めて分かる者です時間の始まりや終わり、即ち「時間の果て」も、この時間の中に存在する我々には、想像すらできないものだと思います。
極めて厳格な学問である素粒子物理学と宇宙物理学の話をしていたはずが、最後は哲学か禅問答のようになってしまいました。
と仰って締めくくっておられます。
全ての学問は、哲学の延長であるのだから、終わりがそうなるのは当然です。
(こちらも読んでみてください。
哲学とは? 科学(自然・人文・社会)の範囲、宗教の範囲、哲学の範囲)
「究極的なものを知りたい」
それが哲学です。
主観に閉じこもってあれこれ言葉を並べて人生論的な「俺哲学」を作りあげるのは、
本来の哲学のあり方に反します。
ここ2500年ほどの哲学の歴史はまさに、俺哲学一直線に逸れ続けている歴史ですが。
宇宙物理学でも素粒子物理学でも、最初の問いかけは哲学から始まります。
物理的に観察できる範囲で哲学する=本質を問うのが、科学です。
ゆえに当然、「時間と空間の果ての外へは行けない」
という壁にぶち当たります。
物理的なものは、時間と空間の中にありますから。
時間と空間の中にないものとは、、実は、自分です。
時間と空間を対象物として観察できている、
「今ここ」の意味である自分です。
それはマインドではありません。みんなここよく間違うけど。
マインドを対象化している、マインドを通して現在過去未来の世界を見ている、
今こことしての存在である自分です。
自分が二次元の世界にいたら、二次元の世界は観察できない。
自分が、二次元を超越した、三次元目にいる存在だから、
二次元の世界を観察できる。
自分が三次元の世界を観察できるのは、
自分が、三次元を超越した、、、どこにいるから?
どこでもなく、自分はまことに、今ここにいます。
今ここの意味として存在しています。
今もここも、時間や空間の最小単位ではなく、
時間や空間といった概念を観察している、
その次元の中にはいない存在。
なんかオカルトのように聞こえるけど、論理から外れていません。
脳科学界がぶち当たっている壁も同様です。
脳内で起きている様々な物理的な脳波を観察している、
その意識という存在は観察できない。
なぜってそれは、自分だからさ。
観察される必要もない、今ここである自分。それは意識そのもの。
時空を超えた存在である、
「今ここ」の意味である、
自分という、ただただ意識である存在。
究極を突き詰めてぶつかる壁は、プラマーナ(知る手段)の壁。
その先にあるものを知るためには、
知覚と推論から独立した、もうひとつのプラマーナが必要。
ヴェーダーンタを、そのもうひとつのプラマーナとして使ってみると、
その先にあると信じて求めていたものが、
今ここの自分だったことに気付かされます。
知識の追求、幸せの追求、全ての追求が終わってしまうところは、
自分だった。ということを知るためのプラマーナです、ヴェーダーンタは。