全ての本質、という普遍的な真実を求めるのが、哲学。
「全ての本質」から派生して、
世界の本質、自分の本質、幸せの意味、
生まれてきた意味、さらに、全てを起源である神、というように、
哲学で扱われるトピックは展開される。
全ての本質を探究する手段によって、
科学、宗教、(いわゆる)哲学、等に分かれる。
科学は、知覚とそれに基づいた論理を、探求手段とする
ゆえに、知覚できるものごと、つまり物理的なものを探求の範囲とする。
知覚(知覚を拡張する装置を通した知覚を含む)を通して得られたデータを元にして、
論理に沿って理論を発見し、それは目に見える形で実証可能であるべき。
科学の中でも、
人間の営みが関わっていないもの(神の領域とでも言いましょうか) を対象とするのが自然科学と呼ばれます。
人間固有の営みを対象とするのが人文科学、その中でも人間社会を対象とするのが社会科学。
宗教は、創始者の教えや経典などを探求の手段とする。
ゆえに、知覚できないものごとも、探求の範囲に含められる。
例えば、創始者や経典などを通して、天国・地獄などの死後の世界、そこで待っている天使とか悪魔などの存在を知ることが出来るが、それらは知覚の範囲でないゆえに、実証は不可能。ゆえに、それらの存在の有無は、信じるしかない。
また宗教は、天国や地獄に行くための人間の営みがどうあるべきかにも言及する。
注意点:
知覚によるデータから論理的に導かれた結論ではないゆえに、実証不可能だけれども、
論理や倫理から逸脱していないかは検証されるべきである。信仰の名のもとにそれを怠っていると不健康な状態を招く。
聖典というものは、人類全て、しいては生き物全ての幸福の追求に寄与してはじめて聖典と呼ばれるべきで、そうでなければ聖典としてのステータスを疑うべきである。
多種多様な宗教が興隆する中で、人類全てがこの点において共通認識を持たなければ、より暴力的な宗教がより人類を支配する結果になります。
哲学者のするいわゆる哲学は、憶測(知覚的なデータに基づいていないけど、論理的に逸脱していない、こうじゃないかな?という考え)を探求手段としている。
物理的でないもの(メタフィジカル)まで含めたものを探求の範囲とすることができる。
ちなみにヴェーダーンタは、探求の手段(プラマーナ、知る手段)をウパニシャッドの文献とし、扱われる対象はメタフィジカルなものとなりますが、それは実証不可能な信仰の対象ではなく、自分自身という、実証も必要ない疑いようのない存在(我考える故に我あり、の本当の意味)であり、それが、論理的に否定しようのない全ての本質と同一であるという、理解するしかない対象です。
科学者であれ、宗教家であれ、しいてはそこなへんの誰だって、
本質的なもの、本当なもの、これが絶対、というもの、
つまり、安心、幸せを求めているのだから、
全ては哲学的な問いに集約されて当然。
哲学的な問いかけのアプローチ(手段)の違いが、
さまざまな学問の違いを生んでいるだけで、
探しているものはみな同じ、ということに気付いてほしい。
また、それぞれのアプローチは、扱っている範囲がそれぞれに違う、
ということも、きちんと認識されるべき。
最近日本でいろんな本を読んでいますが、これらの基本的なことが、
ここ千年くらいの哲学者・科学者・宗教者、あらゆる学者によって、
忘れられているように見受けられます。
ヴェーダーンタを勉強していると、
こういう根本的なことがすっきり分かるようになります。
कस्मिन्नु विज्ञाते सर्वमिदं विज्ञातं भवतीति ।
それをひとつ知ったら、全てを知ったことになる、
それは何ですか?と訊きました。
ムンダカ・ウパニシャッドより筆者訳
「全ての本質」から派生して、
世界の本質、自分の本質、幸せの意味、
生まれてきた意味、さらに、全てを起源である神、というように、
哲学で扱われるトピックは展開される。
全ての本質を探究する手段によって、
科学、宗教、(いわゆる)哲学、等に分かれる。
科学は、知覚とそれに基づいた論理を、探求手段とする
ゆえに、知覚できるものごと、つまり物理的なものを探求の範囲とする。
知覚(知覚を拡張する装置を通した知覚を含む)を通して得られたデータを元にして、
論理に沿って理論を発見し、それは目に見える形で実証可能であるべき。
科学の中でも、
人間の営みが関わっていないもの(神の領域とでも言いましょうか) を対象とするのが自然科学と呼ばれます。
人間固有の営みを対象とするのが人文科学、その中でも人間社会を対象とするのが社会科学。
宗教は、創始者の教えや経典などを探求の手段とする。
ゆえに、知覚できないものごとも、探求の範囲に含められる。
例えば、創始者や経典などを通して、天国・地獄などの死後の世界、そこで待っている天使とか悪魔などの存在を知ることが出来るが、それらは知覚の範囲でないゆえに、実証は不可能。ゆえに、それらの存在の有無は、信じるしかない。
また宗教は、天国や地獄に行くための人間の営みがどうあるべきかにも言及する。
注意点:
知覚によるデータから論理的に導かれた結論ではないゆえに、実証不可能だけれども、
論理や倫理から逸脱していないかは検証されるべきである。信仰の名のもとにそれを怠っていると不健康な状態を招く。
聖典というものは、人類全て、しいては生き物全ての幸福の追求に寄与してはじめて聖典と呼ばれるべきで、そうでなければ聖典としてのステータスを疑うべきである。
多種多様な宗教が興隆する中で、人類全てがこの点において共通認識を持たなければ、より暴力的な宗教がより人類を支配する結果になります。
哲学者のするいわゆる哲学は、憶測(知覚的なデータに基づいていないけど、論理的に逸脱していない、こうじゃないかな?という考え)を探求手段としている。
物理的でないもの(メタフィジカル)まで含めたものを探求の範囲とすることができる。
ちなみにヴェーダーンタは、探求の手段(プラマーナ、知る手段)をウパニシャッドの文献とし、扱われる対象はメタフィジカルなものとなりますが、それは実証不可能な信仰の対象ではなく、自分自身という、実証も必要ない疑いようのない存在(我考える故に我あり、の本当の意味)であり、それが、論理的に否定しようのない全ての本質と同一であるという、理解するしかない対象です。
科学者であれ、宗教家であれ、しいてはそこなへんの誰だって、
本質的なもの、本当なもの、これが絶対、というもの、
つまり、安心、幸せを求めているのだから、
全ては哲学的な問いに集約されて当然。
哲学的な問いかけのアプローチ(手段)の違いが、
さまざまな学問の違いを生んでいるだけで、
探しているものはみな同じ、ということに気付いてほしい。
また、それぞれのアプローチは、扱っている範囲がそれぞれに違う、
ということも、きちんと認識されるべき。
最近日本でいろんな本を読んでいますが、これらの基本的なことが、
ここ千年くらいの哲学者・科学者・宗教者、あらゆる学者によって、
忘れられているように見受けられます。
ヴェーダーンタを勉強していると、
こういう根本的なことがすっきり分かるようになります。
कस्मिन्नु विज्ञाते सर्वमिदं विज्ञातं भवतीति ।
それをひとつ知ったら、全てを知ったことになる、
それは何ですか?と訊きました。
ムンダカ・ウパニシャッドより筆者訳