『Talks and Essays Three』 13ページ Ānanda
第1パラグラフ
アートマン(自己)はサット・チット・アーナンダと定義されています。
このみっつの言葉の定義は、しばしば「存在、意識、制限の無いこと」と訳されます。
これらみっつの言葉がアートマンの修飾語でないことは明らかです。
もしこれらが修飾語なら、アートマンという名詞(が指す実体)が複数あり、その中から「サット・チット・アーナンダ」という特別な属性によって選び出されるということになります。(その例えとして)もし「ここに青く・大きな・香りの良い水連があります」と言う場合、これら全ての修飾語は、他の別の属性を持つ水連から、この(属性を持つ)水連を選び出します。
第2パラグラフ
「私がいる」ということは自明ですが、その存在は時間に制限されているのでしょうか?
もしそうならアートマンは、他のあらゆる対象物のようになってしまいます。
それ(他の対象物)は、その存在が知られなければなりません。
全ての対象物は、自己に対してその存在を知られます。
自分の存在は知られています。
誰に対して知られているのでしょうか?
もちろん自己に対して知られているのです。
事実、シャーストラはアートマンをサッティヤ(それ自体で存在している存在)、知る主体を含むそれ(アートマン)以外のもの全てを、アートマンから存在を得ている存在だと教えています。
この、それ自体で存在しているアートマンは、自明でなければなりません。
(他の対象物は、アートマンから存在を得ていて、その存在は自明ではない。)
そうでなければ、自己の存在を認識する方法ないので(自分の存在を自明に知ることはできません。)
(自分の存在を知るのにプラマーナは要らないし、それを知るプラマーナもない。)
ゆえに、この自明である本質が、ふたつめの「cit」という言葉で示されています。
全ての存在(sat)の証明は知識であり、そこには意識(cit)があります。