「執着を捨て、結果を期待せずに、ただ仕事をしろ(タダ働きをしろ?)」
ギーターの翻訳本や、ヨガのTTCでよく聞くフレーズなのではないでしょうか?
イーシュヴァラとは何かの教えも理解もなく、
イーシュヴァラ無しのカルマ・ヨーガはあり得ない、
という主旨の、ある日のスワミジのクラスの一部です。
ヴァルナ・アーシュラマに沿って、するべきことをする話から始まっています。
話の途中からですが、自分のノートを訳してみました。訳内の()カッコ内の文章は私の追加です。
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ब्रह्मचर्य – study so that you can see subtle difference
学生期においては、勉強に専念し、微細な違いが分かる知性を培います。
such as statement of fact and statement of command, which makes you guilty, control.
例えば、事実を述べている文章と、指示を述べている文章の違いです。後者はあなたに罪悪感を持たせ、コントロールします。
(ここは深いです。単なる肯定文と命令文の違いではありません。宗教の聖典の解釈や、マスメディアとの付き合い方とも関わっています。)
We are not taking “आत्मा should be like this.”
私達(ヴェーダーンタを教え継ぐ伝統において)は、「アートマンはこうあるべきだ」とは言いません。
Even in कर्मकाण्ड, the intention of लोट् is to tell what is good for you, हित.
(ヴェーダーンタの前にある)カルマ(儀式など)を教える部分でも、命令形の表現は、あなたにとって良いことを教えているだけです。(これはプンニャを生む。これはパーパを生む。それらは人間的な成長に関わっている。)
It is up to you.
(それをするかしないかは)あなた次第です。
(人間的な成長を遂げる為には、自分の意志を使う他ない。人間が人間らしくあるのか、獣のようであるかの違いを生むのは、その人の自由意志の使い方のみ。人間らしくあれる行動を選ぶのが賢明であると、ヴェーダは、自由意志の賢い使い方を教えている。)
This कर्मs enjoined by शास्त्र, if they are done with the attitude for neutralizing your रागद्वेषs (which gives you pressure to go against धर्म) so that you don’t have any problem or conflict to conform to धर्म (#1)
ヴェーダで教えられているカルマを、(不適切な行動に向かわせる圧力を持つ)自分の好き嫌いを中和させようとする態度を持って行えば、あなたは、あらゆる問題や、ダルマに沿う・沿わないの葛藤から自由になります。(カルマ・ヨーガの効用その1)
And (#2) looking upon धर्म itself as ईश्वर, then you become a contributor to ईश्वर’s manifestation.
そして、ダルマをイーシュヴァラの表れと見ることにより、あなたはイーシュヴァラの表れ(であるこの世界)の貢献者となります。
And you are part of it and you are born to be a contributor.
そしてあなたは、その(イーシュヴァラの表れであるこの世界の)一部であることから、貢献者として生まれて来ているのです。
And you contribute.
そして、あなたは貢献します。
Trees contribute, animals contribute.
木々は(それとして生きているだけで、この世界に)貢献しています。動物達も貢献しています。
This contribution is from ईश्वर, not from them.
この貢献はイーシュヴァラからのものです。動植物そのものからではありません。
They are ईश्वर’s manifestation.
彼らは、イーシュヴァラの表れです。
They don’t have choice not to contribute.
彼ら(動植物)は、貢献しないという選択を持っていません。
You have a choice
あなた(人間)には選択があります。(自由意志がある。)
because you have अधिकारिशरीर.
なぜなら、あなたは(ヴェーダの意味を理解し、活用できる)資格のある身体を持っているからです。
शरीर designed for मोक्ष.
(人間の身体は、)モークシャの為にデザインされた身体です。
So you need to be responsible for your actions.
(人間である)ゆえに、自分の行動に責任があります。
You consume, and you contribute.
あなたは(空気や水や食物などを)消費し、そして、貢献します。
That is duty.
それ(貢献すること)はデューティー(義務)です。
In the beginning, you avoid.
最初のうちは、あなたはそれを避けています。
Afterwards you find you are participant in this manifestation of ईश्वर in the form of world, in which there are so many orders.
後に、自分がこの世界の参加者であると気づきます。この世界は様々な法則からなる、イーシュヴァラの表れです。
And you are very important part, that’s why you are there.
そしてあなたは、とても重要なパートです。だから、あなたはここにいるのです。
You have to contribute.
あなたは(この世界に)貢献しなくてはなりません。
That is why you are there.
そのために、あなたは(この世界にこの身体と能力や立場などを持って)いるのです。
In the beginning, you may complain (that you have do your duty) but you begin to love what you do.
最初は文句を言うかもしれません。(したくないことしたくない、とか。)しかし、自分のしていることを好きになってきます。
Because who will not enjoy himself as a person free from conflict and guilt?
なぜなら、葛藤や罪悪感の無い自分を愉しまない訳が無いでしょう?
Who will not enjoy the self-esteem being a contributor?
貢献者としての自己尊敬を愉しまない人などいません。
Contributors enjoy self-esteem.
貢献の行動を選ぶ人々は、自尊心を愉しんでいます。
In fact one doesn’t have self-esteem that’s why always consults others, seeking approval of others.
実際、他人からの承認を求めて、いつも他人の意見を伺うのは、自尊心が無いからです。
“Do you think I am really good? What makes you think so?”
「私のこと、良いと思う?何で?」
No matter what you do, it can be a contribution depending upon your attitude, involvement, awareness of ईश्वर.
何を職業としていても、自分のイーシュヴァラへの態度、関係、認識によって、それが貢献となります。
Therefore without ईश्वर, there is no कर्मयोग.
ゆえに、イーシュヴァラ無しに、カルマ・ヨーガなど無いのです。
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