私の先生であるプージヤ・スワミジが、対象物の認知におけるステップと、ウパニシャッドの教えの理解における認知ステップの違いについて説明されているところです。
トピック自体はテクニカルなのですが、ステップの違いが生まれる原因である、ヴェーダーンタで教えらえている主題の特性を説明により、「伝統的な教え、言葉の扱い方」も伝えています。
私はいつも「言葉の独り歩き」と呼んでいるのは、まさにこういった、伝統的な言葉の扱い方を知らずに、ヨガのTTCや哲学の本やギーターの翻訳本などで無邪気に多用されている「スピリチュアルな言葉」のことです。
以下の訳は、自分の為にしましたが、皆さんにもシェアしますね。
Knowledge is “I am not कर्ता”.
(ヴェーダーンタの教えらから得られる)知識は、「私は行動をしている人(この身体、心、器官など)ではありません。」ということです。
Doer I am. Doing is not gone.
「行動をしている人は私です。」行動は無くなりません。
But I am not doer. That is विद्या.
しかし、私は行動をしている人ではありません。これが知識です。
(B is A but A is not B.)
And अविद्या/अज्ञान is “Doer I am. And also I am doer”.
そして無知は、「行動をしている人は私で、私は行動をしている人です。」
(B is A but A is B.)
The knowledge “I am not the doer” is not there.
「私は行動をしている人ではありません。」という知識が無いのです。
Here the mistake is,
(伝統の教え方を知らない人々のアドヴァイタの知識の教え方・受け取り方の)間違いは、以下にあります。
“I am not the doer.”
「私は行動をしている人ではありません。」
“Then who is the doer?”
「では、行動をしている人は誰ですか?」
“That is nothing to do with me.”
「それは私とは全く関係ありません。」
Therefore there are two objects.
そうすると、(私と、行動をしている人という、)ふたつの存在があることになります。
You have to deal with the “not-I”.
あなたは、その「私で無いもの」と、向き合わなければなりません。
The “not-I” is much more vaster than I.
その「私で無いもの」は、私よりも遙かに広大です。
Your I is located on your body.
あなたの「私」は、あなたの身体にあるだけです。
“Not-I” is everywhere.
「私で無いもの」は、全てにおいてそこらじゅうにあります。
It just overwhelms you.
それはあなたを圧倒します。
That is the problem.
それが問題なのです。
“Not this, not this, नेति, नेति…” Then what is this?
(ウパニシャッドにある)ネーティ、ネーティ(それは違う、それは違う)では、それは何なのですか?
(Once is enough. Twice वीप्सा is meant “anything you objectify.” “whatever”) न इदंतया गृह्यते that which is not the subject to objectification. That is the meaning. दृगेव न तु दृश्यते।
(二回言うのは、「『これ』と対象化できるものは全て」という意味です。)
So, अनात्म-निषेध (नेति नेति) is half-way-home.
ゆえに、「自分では無いもの(アナートマー)」を自分ではないと否定するのは、道途中です。(Homeに辿り着けないと意味無い。誰だって、going homeの途中。)
The self is not anything you objectify.
自己の本質とは、自分が対象化するもののどれでもありません。
But anything you objectify is you.
しかし、自分が対象化するものの全てはあなたです。
What is construed to be the self is negated.
自分では無いのに自分としてしまっているものを、否定するのです。
When the teaching negates न उदेति न अस्तम् एति… and asserts, it is चित् consciousness, आनन्द.
(ウパニシャッドの)教えが、(自分の存在は)表れたり、亡くなったりするものでは無いと否定し、そして、その存在は意識であり、制限の無い存在であると教えます。
It is not verbalization.
これは、言葉で無いものを言葉にしているのではありません。(だから、ヨガやスピ系の人々は「体験しないと」「実践しないと」などと言い出す。)
There is just words.
(知る手段としての)言葉があるのみです。
You become the meaning of those words.
あなたが、その言葉の意味となるのです。
There is no conceptualization because this is you, self-revealing.
概念化しているのではありません。あなたは、自明な存在だからです。(今いる自分が、言葉の意味そのものだから、対象物の認知に必要なふたつのステップのふたつめが要らない。)
See how the whole spiritual world is caught in these words of negation.
スピリチュアル界がどのように、否定の言葉(「私はこの身体では無い」etc.)に捕まってしまっているのか、見てください。
I found words of negation are more dangerous than words of assertion.
「あなたは~です」という言葉より、否定の言葉のほうが危険だと観察しています。
It puts you on a spin.
それは人々を混乱させます。
That is why I say “handling”.
ゆえに、「(ヴェーダーンタの教えの言葉を、先生は)取り扱う」という言い方をするのです。
Handling the words, because you are self-revealing consciousness.
言葉を取り扱う。なぜなら、あなたは自明の存在である、意識そのものだからです。