カルマヨーガは実践しないと意味がないですが、ヴェーダーンタの教えそのものは実践できるものではありません。
そこをあべこべにしてしまうケースは多いですけどね。
ダルマに関して、実践するべきだと分かっているけど実践しない。
モークシャは知るべきことなのに、分かっていないから実践・実現しようとする。
「頭で理解してるだけじゃダメ」「実践しないと意味が無い」「どれだけ実践できてるの?」というセリフはやっぱり、ヨガ畑の人の間に多いような気がします。
以下、今日聴いていたプージヤ・スワミジのクラスから。
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今までにこのような話を聴いたことのある人は多いと思います。
“from Vedanta शास्त्र, you gain theoretical knowledge, which is given by Guru, a signpost pointing out मोक्ष.”
「ヴェーダーンタの文献から、先生を通して、理論的な知識を得ます。先生は、モークシャを指さしてくれる標識です。」
(モークシャはどこか先にあるものだとしていて、先生から教えてもらった理論を実践して実現するものだ、としている。それが、伝統の教えを知らないヴェーダーンタ、もしくは、準備の出来ていない人が聴いたヴェーダーンタの理解。)
That is why they say अधिकारित्व, the preparedness of the individual.
ゆえに、聴く人の理解の準備である「アディカーリットヴァ」について(伝統の先生方は)話すのです。
Clarity about what you want.
自分が何が欲しいのかのクラリティ(明確さ)。
Clarity about the issue.
問題が何なのかのクラリティ。
Is there “becoming” issue? Or, is there issue of sheer confusion, born of not knowing?
問題は、「何かになること」でしょうか?それとも単に、無知による混乱でしょうか?
When that is clear, where is any practice?
それが明確になっていたら、実践などありえるでしょうか?
(問題が、自分が求めている自分に「なること」だったら、何なりと実践する必要がある。しかし、本当の問題は、自分は既に求めている自分だった、ということを知らないことにあるので、どれだけジタバタして何を実践しても、状況は変わらない。問題は知らないことなのだから、解決は知ることのみ。)
If I am what I want to be, there is no theory involved.
もし私が、なりたい私なら、そこにいかなる理論もありません。
(だって、既に私は自分の望む私なので、「こーすれば、あーなる」という理論の余地は無い。)
You required a means of knowing.
(それを)知る手段が必要なだけです。
The means of knowing is the very teaching.
知る手段とは、教えそのものです。
So, where is the question of not knowing?
そうなら、知れないという問題はあるでしょうか?
If there is a problem, fix that problem.
問題があるなら、その問題を是正すればいいだけです。
(知ることに問題がある、というのはつまり、理解の準備ができていない、ということ。理解の準備をするために、カルマヨーガがある。)
There is no theory-practice.
(ヴェーダーンタの教えに、)理論と実践は無いのです。