アメリカに住んでいた頃、2年以上続いたバックパッカーの旅に出る前に、世界中の宗教についてざっと勉強しておこうと、東洋の宗教の本を借りて、ヒンドゥー教について読んでみると、「ヒンドゥー教は宗教ではない」と書いてあり、面食らった思い出があります。
その後、インド亜大陸を3か月程旅して周るのですが、確かに、セム族一神教に比べたら、
多種多様すぎるようで、同時にこれといった決め手も分からず、
何を掴みどころとしていいのかさえも良く分からない。ヒンドゥー教とは、私にとってそんなイメージでした。
その後何年も経ってから、とてつもないグレースのおかげで、ヴェーダーンタをスワミジの下で、インドの伝統的な文化の中で学ばせてもらうことができました。
それは、単に学校で勉強して「インドに詳しくなる」というのではなく、「人間とは何か、世界とは何か、イーシュヴァラとは何か、そして、人生の意味」について、明確に教えてもらう、ということです。
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だいぶ前にインターネット上で、インドで支援活動をしている方に、何かの話の折に、「ヒンドゥー教と呼ばれている、インドの伝統的な文化の素晴らしさについて学んでみたら良い」というおせっかいなアドヴァイスをしたことがあります。
長年インドに住んでいても、自ら進んで、正しく教えてくれるところで学ばない限り、ヴェーダに関する知識を正しく学ぶことは、なかなかできないのが事実です。
(とてつもないグレースが必要なので!)
なぜそんなおせっかいなアドヴァイスをしたのか?
まず、支援とか開発とか息巻いている人に限って、「先進国」 の自分達の価値観の方が「優っている」ということを信じて疑わず、「競争すること」を教えたがる人が多いですが、それはどうかなと思っています。
いわゆる先進国で生まれ育った自分達が、経済的な成長や、競争に勝つといった価値観しか知らないで、それがおかしいと思っているから、いわゆる途上国にやって来たのに、そこで、お金や競争と無関係な人達が何でいままでこうやって幸せに生きているのか、不思議に思って、謙虚になって、学ばせてもらおう、と思わなくては、勿体ない。
そう思って、私はアドヴァイスをしたのです。
インドにいさせてもらっているのに、インドで教え継がれている人類の為の知識の素晴らしさを学ばせてもらおうとしないのは傲慢である、とさえも思います。
これからの国際支援に必要なアチチュード(姿勢)は、この「現地の人の伝統文化から学ばせてもらう」という姿勢だと、私は思っています。
まぁとにかく、その人におせっかいなアドヴァイスをして、返ってきたお返事が、
「私は仏教もキリスト教もイスラム教も素晴らしいと思うので、ヒンドゥー教だけが素晴らしいというのは同意できない」というものでした。
一見、とってもリベラルで平和主義の模範解答に見えますが、これこそが、分断と対立にもとづいた、分断と対立を増長している考え方です。
そもそも、私はヒンドゥー教「だけ」が素晴らしいなんて言ってませんけどね。言ってないのにそのように聞こえてしまうこと自体が、「ひとつのことを褒める=その他のことをけなしている」という、「個々は分断と対立の関係にある」という思想にもとづいていて、平和的でない。
そして何よりも、「ヒンドゥー教」とは言いますが、それは、仏教、キリスト教、イスラム教といういろいろある宗教の中のひとつである、というのが大きな勘違いです。
(ここにある全てが神なのだから、全ての名前は神の名前であり、どの名前で神様を呼ぶかの違いが宗教で、それを理由に殺し合いの戦争をしているのは幼稚すぎます。)
長年インドに住んでいても、そういうことをちゃんと勉強しないかぎり、正しく知ることは出来ません。
そして、何処に住んで何をしていようとも、このようなことを正しく知らない限り、本当に平和の実現に協力できることは無いと思います。
但し、ヴェーダの知識を正しく学ぶためには、謙虚さと知性、そして、とてつもないプンニャが必要なのだなぁ、ということは、アシュラムを出てから特に痛切に感じます。。
世界のひとりでも多くの人に、謙虚さと知性、そしてプンニャが増えて、それらが正しいことに使われますように。。
ヒンドゥー教とは?
私はたまに、ヒンドゥー教に改宗したの?と訊かれることがありますが、ヒンドゥー教に改宗はありません。
今日アメリカから、ヴェーダの知識はヒンドゥー教徒のみか?という質問を受けました。もちろん答えはNoですが、そもそも「ヒンドゥー教徒」の定義からきちんと考え直さなくてはなりません。先に述べたように、ヒンドゥーとは、仏教、キリスト教、イスラム教といういろいろある宗教の中のひとつではありません。
ヴェーダは全人類の為にあります。ヴェーダの知識を活用するために必要なのは、自己意識と自己コンプレックス、自由意志を持った生命体であることだけで、地球人である必要すらありません。
地球上のどんな人でも、ヴェーダが教えている祈りの儀式や真実に信頼を持っていて、
「祈りの儀式をしたい」「その真実を知りたい」と本人が素直にそう願っているのなら、
その人の宗教が何であれ、ジェンダーが何であれ、国籍や民族、生まれや育ちが何であれ、
それを止めることは出来ません。
アシュラムやグルクラムでプージャーを頼んだことのある方、勉強をしたことのある方なら分かると思いますが、「あなたの宗教は何ですか?」と訊かれたことは無いはずです。
私もそのような質問を、学びに来た人に対して誰一人にも聞いたことはありません。当たり前です。
プージャ・スワミジのお話
今日は、前の3年コースで私が教えたインド人の生徒が教えているクラスに招待されて、クラスの最後に、上のような質疑応答をしていました。
私の答えを聴いた後、そのインド人の生徒さん(タミル人)が、以前にプージャ・スワミジが、ダルマ・ラクシャナ・サミティという主にタミル州で活動をしている方々に向けてお話されていたことを、シェアしてくれました。
草原でリラックスしている牛のところに、突然、棒を振りかざした男が向かってきたとしたら、その牛は、本能的に自分を守るために、その男を攻撃することでしょう。
「これは暴力(ヒムサー)なのでは?この人に怪我をさせてしまったら?もし死んでしまったら?この人が仕事ができなくなったら、この人の家族はどうやって生きて行くのだろう?そんなことを自分がしてもいいのだろうか?」
そんなことを考えるように、牛は出来ていません。牛の行動は、牛の本能が決定します。ゆえに、罪も罪悪感もありません。
しかし、全く同じ状況でも、人間の場合なら、どうでしょうか?
棒を振りかざして自分に向かってくる人に対して、本能的に攻撃する前に、
自分に対して、上にあるのと同じ問いをする人。
その人が、ヒンドゥーです。
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ヒンドゥーと呼ばれる人についての理解が、今までの見識から、変わりましたか?
スワミジのお話について、よく考えてみてください。
世の中には分断と対立を煽ることを意図したニュースで溢れていて、
ヒンドゥーという言葉さえも、人々を分断するための道具に使われていますが、
そのような情報に踊らされずに、流されずに、地に足の着いた考えで、
このような大事なことについて、正しく認識できる人が世界に増えて、
世界中がより平和になりますように。。