自己肯定できない、というのはつまり、
自分が知っている自分は、肯定できる存在、受け入れらない存在だ。
ということです。
その受け入れられない自分、というのは、自分の身体や心やそれに付随するものに決まっています。それを自分としている自分の結論について、それは本当なのか?と疑わず、
自分という存在を100%ダメ男・ダメ子認定しているから、
「(自己肯定はできないけど)自己肯定(している)感覚(になってみる)」、
つまり、「自己肯定感」しか持てないのです。
自己肯定感だろうが、至福感だろうか、なんだろうが、
もう、感覚を追いかけ、感覚に振り回されることが無いのです。
天国や死後の世界に勧誘する宗教も、あなたを100%ダメ男・ダメ子認定しています。
あなたが生きている間は肯定できるような存在ではない、と認定しているから、死んでから天国に行って、やっとハッピーエンドになれると説法しているのです。失礼な話ですね。
自分は本当に、本質的に、完全に肯定できる存在ではないのか?
自分の認識が間違っているのでは?
と疑うことのできる理性的な考えを持った人、
そして、自己認識を根本から認識を覆すことのできる、オープンなマインドを持った人にしか、ヴェーダーンタは理解できません。
そのような冷静な考えで事実を見ようとすることが出来ないうちは、
瞑想や自己肯定「感」至福「感」で、気分を紛らわすことに専念しておけば良いでしょう。
自分が知っている自分は、肯定できる存在、受け入れらない存在だ。
ということです。
その受け入れられない自分、というのは、自分の身体や心やそれに付随するものに決まっています。それを自分としている自分の結論について、それは本当なのか?と疑わず、
自分という存在を100%ダメ男・ダメ子認定しているから、
「(自己肯定はできないけど)自己肯定(している)感覚(になってみる)」、
つまり、「自己肯定感」しか持てないのです。
自己肯定というものが、事実に基づいていないから、自己肯定「感」が必要になるのです。
自己肯定「感」で妥協しているのは、そもそも自分なんて肯定できる存在なんかではあり得ない、と諦めている証拠です。
自己が肯定できる存在であるというのが、その人にとって事実なら、感覚に頼る必要はありません。
自分という存在は、本質的には、あらゆる面においても否定しうる存在では無い、というヴェーダーンタの教えが事実かどうかが問題であり、
「あ~、なんか自分を肯定できる気がする~♪」という感覚などは問題にはなりません。
肯定できないような自分という自己認識は間違いであり、事実は正反対である、 と知っていたら、どのような「感覚」を持っていようと関係ありません。自己肯定「感」で妥協しているのは、そもそも自分なんて肯定できる存在なんかではあり得ない、と諦めている証拠です。
自己が肯定できる存在であるというのが、その人にとって事実なら、感覚に頼る必要はありません。
自分という存在は、本質的には、あらゆる面においても否定しうる存在では無い、というヴェーダーンタの教えが事実かどうかが問題であり、
「あ~、なんか自分を肯定できる気がする~♪」という感覚などは問題にはなりません。
自己肯定感だろうが、至福感だろうか、なんだろうが、
もう、感覚を追いかけ、感覚に振り回されることが無いのです。
天国や死後の世界に勧誘する宗教も、あなたを100%ダメ男・ダメ子認定しています。
あなたが生きている間は肯定できるような存在ではない、と認定しているから、死んでから天国に行って、やっとハッピーエンドになれると説法しているのです。失礼な話ですね。
自分は本当に、本質的に、完全に肯定できる存在ではないのか?
自分の認識が間違っているのでは?
と疑うことのできる理性的な考えを持った人、
そして、自己認識を根本から認識を覆すことのできる、オープンなマインドを持った人にしか、ヴェーダーンタは理解できません。
そのような冷静な考えで事実を見ようとすることが出来ないうちは、
瞑想や自己肯定「感」至福「感」で、気分を紛らわすことに専念しておけば良いでしょう。