ヴェーダーンタを勉強する理由は、たったひとつ、
「自分の理解の向上のため」であるべきです。
たとえ周りの人々の幸せの向上を願ってのことであっても、
「教えられるようになるために」が
ヴェーダーンタを勉強する理由になってしまっていないか、
今一度、自分自身でチェックしてみてください。
なぜ、教えることが、ヴェーダーンタの学びの理由であってはならないのかは、
きちんと勉強を続けて、ヴェーダーンタの理解が向上すれば、
おのずと明らかになります。
この世界の中で、心の平安を得るために必要なものは、
ダルマの理解と、ダルマに沿った生活です。
ダルマの範囲と、ヴェーダーンタの範囲は違います。
病んだ社会や個人に必要なのは、「ダルマ」の理解ですから、
アヒムサーに基づいた価値観、ベジタリアニズム、
いろいろなお祈りのかたちや意味、インドの伝統文化、、、
このような「ダルマ」に関することは、
自分が実践してお手本になりがら、多くの人に伝えるのはとても良いことです。
「モークシャ」というプルシャールタについても、
話し合えそうな相手だったら、「こういうものがある」と『紹介』してあげて、
本人がさらに知りたいと願えば、正しく学べるように、先生を紹介してあげると良いでしょう。
繰り返しますが、
世の中を良くしたいと願うなら、皆の幸せを願うなら、
アヒムサーに基づいた価値観、ベジタリアニズム、
いろいろなお祈りのかたちや意味といった、
インドの伝統文化にある「ダルマ」について、
学び・実践し・広く多くの人に推奨すると良いでしょう。
ヴェーダーンタの教えるモークシャが必要になるのは、
ダルマに沿って生きた人に、分別のある客観的な思考力が出来てからです。
ヴェーダーンタそのものは、こちらから進んで教えるものでは無いですし、
紹介だけできれば、あとはその人のグレースが正しい道へと誘導してくれます。
サンスクリット語に関しては、
クラスの中で、シェアする立場になることを想定してしっかり学び、
クラスの外でも、他の人とシェアし合うことを推奨しています。
このプロセスを通して、教えること・教えられること・そのパランパラーとは、
コンパッション(思いやり)とグレースのみに頼って存在しているということが、
少しずつ身をもって分かってくるからです。
また、クラスで聴いたことについて、特に、アヒムサーの価値観や、お祈りについて、
自分の周りで話を聞いてくれそうな人には話してあげるといいですよ、とは言いますが、
ヴェーダーンタを教えられるようになるために、ヴェーダーンタを教えています、ということはありません。
私はヴェーダーンタを広めたくて教えているのでもなければ、教えたくて教えているのでも無いですし、ましてや、生活のために教えているのでもありません。
そこなへんをよく理解していただくことも、ヴェーダーンタの理解に必ず役に立つので、是非理解に努めてみてください。
「自分の理解の向上のため」であるべきです。
たとえ周りの人々の幸せの向上を願ってのことであっても、
「教えられるようになるために」が
ヴェーダーンタを勉強する理由になってしまっていないか、
今一度、自分自身でチェックしてみてください。
なぜ、教えることが、ヴェーダーンタの学びの理由であってはならないのかは、
きちんと勉強を続けて、ヴェーダーンタの理解が向上すれば、
おのずと明らかになります。
この世界の中で、心の平安を得るために必要なものは、
ダルマの理解と、ダルマに沿った生活です。
ダルマの範囲と、ヴェーダーンタの範囲は違います。
病んだ社会や個人に必要なのは、「ダルマ」の理解ですから、
アヒムサーに基づいた価値観、ベジタリアニズム、
いろいろなお祈りのかたちや意味、インドの伝統文化、、、
このような「ダルマ」に関することは、
自分が実践してお手本になりがら、多くの人に伝えるのはとても良いことです。
「モークシャ」というプルシャールタについても、
話し合えそうな相手だったら、「こういうものがある」と『紹介』してあげて、
本人がさらに知りたいと願えば、正しく学べるように、先生を紹介してあげると良いでしょう。
繰り返しますが、
世の中を良くしたいと願うなら、皆の幸せを願うなら、
アヒムサーに基づいた価値観、ベジタリアニズム、
いろいろなお祈りのかたちや意味といった、
インドの伝統文化にある「ダルマ」について、
学び・実践し・広く多くの人に推奨すると良いでしょう。
ヴェーダーンタの教えるモークシャが必要になるのは、
ダルマに沿って生きた人に、分別のある客観的な思考力が出来てからです。
ヴェーダーンタそのものは、こちらから進んで教えるものでは無いですし、
紹介だけできれば、あとはその人のグレースが正しい道へと誘導してくれます。
サンスクリット語に関しては、
クラスの中で、シェアする立場になることを想定してしっかり学び、
クラスの外でも、他の人とシェアし合うことを推奨しています。
このプロセスを通して、教えること・教えられること・そのパランパラーとは、
コンパッション(思いやり)とグレースのみに頼って存在しているということが、
少しずつ身をもって分かってくるからです。
また、クラスで聴いたことについて、特に、アヒムサーの価値観や、お祈りについて、
自分の周りで話を聞いてくれそうな人には話してあげるといいですよ、とは言いますが、
ヴェーダーンタを教えられるようになるために、ヴェーダーンタを教えています、ということはありません。
私はヴェーダーンタを広めたくて教えているのでもなければ、教えたくて教えているのでも無いですし、ましてや、生活のために教えているのでもありません。
そこなへんをよく理解していただくことも、ヴェーダーンタの理解に必ず役に立つので、是非理解に努めてみてください。