先日リシケシにて、私のサンスクリットのクラスに突然、
ロンドンの若い精神科医がやって来て、クラスの後に、
彼の専門のフィールドとヴェーダーンタとの関係についてお話をする機会がありました。
ちなみに、プージャスワミジは、このあたりの造詣が深く、
西洋からのヴェーダーンタの生徒の多くを精神科医に育て上げてこられました。
今回この若い精神科医と話して感じたことは、
医師たちこそダルマの勉強をしっかりする必要がある、ということです。
彼曰く、現代の精神医療は薬物で脳内のケミカルバランスが整っていればOK、
化学物質的にハッピーに「感じて」いるのが最終的なゴールになってしまっている、とのことです。
しかし、インド移民の末裔である彼には、そのようなゴールでは納得いかず、
彼の原点であるインドで旅とヨガをしながら、いろいろ探索をしておられ、
ご縁があって私のところに来たそうです。
ダルマの理解は、単なる因果応報的な信仰に終わらず、
心理的側面や、最終的には人生の意味まで、
全体的なヴィジョンの理解に繋がらなければなりません。
つまり、ダルマの何たるかは、
「良心・コンパッション・思いやり・他の痛みを慮る」といった、
自分の胸に手を当てれば分かることが基本になっていますから、
自分の行動の選択がダルマに沿ったものかどうかが自分の自己認識に関わっている、
という理解につながらなければなりません。
さらに、
ダルマに沿った行動を自分の意思を使って選択すること
=世界と調和をもって関わること
=健康的でしっかりとした土台のあるな自己受容(単なるケミカルなものでは無い)
ということがあってこそ、最終的な自由であるモークシャに繋がる、
という最終的なゴールまで見据えた、宇宙全体の繋がりまで、患者が見られるように、
まず医師たちがそういったヴィジョンを、伝統的なヴェーダの先生から学ぶ必要があると、強く感じております。。。
あと、何度でも言いますが、ヴェーダのヴィジョンは、
ヴェーダ・ヴェーダーンタのヴィジョンの教えの伝統を受け継いでいる先生のところに行って学ばなければなりません。
伝統的な先生のもとできちんと教えてもらう以外の、自己流の学び方や、自己流の先生の話を聞いているだけだと、勝手な解釈で終わってしまいます。
ロンドンの若い精神科医がやって来て、クラスの後に、
彼の専門のフィールドとヴェーダーンタとの関係についてお話をする機会がありました。
ちなみに、プージャスワミジは、このあたりの造詣が深く、
西洋からのヴェーダーンタの生徒の多くを精神科医に育て上げてこられました。
今回この若い精神科医と話して感じたことは、
医師たちこそダルマの勉強をしっかりする必要がある、ということです。
彼曰く、現代の精神医療は薬物で脳内のケミカルバランスが整っていればOK、
化学物質的にハッピーに「感じて」いるのが最終的なゴールになってしまっている、とのことです。
しかし、インド移民の末裔である彼には、そのようなゴールでは納得いかず、
彼の原点であるインドで旅とヨガをしながら、いろいろ探索をしておられ、
ご縁があって私のところに来たそうです。
ダルマの理解は、単なる因果応報的な信仰に終わらず、
心理的側面や、最終的には人生の意味まで、
全体的なヴィジョンの理解に繋がらなければなりません。
つまり、ダルマの何たるかは、
「良心・コンパッション・思いやり・他の痛みを慮る」といった、
自分の胸に手を当てれば分かることが基本になっていますから、
自分の行動の選択がダルマに沿ったものかどうかが自分の自己認識に関わっている、
という理解につながらなければなりません。
さらに、
ダルマに沿った行動を自分の意思を使って選択すること
=世界と調和をもって関わること
=健康的でしっかりとした土台のあるな自己受容(単なるケミカルなものでは無い)
ということがあってこそ、最終的な自由であるモークシャに繋がる、
という最終的なゴールまで見据えた、宇宙全体の繋がりまで、患者が見られるように、
まず医師たちがそういったヴィジョンを、伝統的なヴェーダの先生から学ぶ必要があると、強く感じております。。。
あと、何度でも言いますが、ヴェーダのヴィジョンは、
ヴェーダ・ヴェーダーンタのヴィジョンの教えの伝統を受け継いでいる先生のところに行って学ばなければなりません。
伝統的な先生のもとできちんと教えてもらう以外の、自己流の学び方や、自己流の先生の話を聞いているだけだと、勝手な解釈で終わってしまいます。