ダルマという言葉は、いろいろな意味において使われていますが、
このふたつの意味を認識しておくと、全体像が分かり易くなると思います。
1.秩序という意味において
「これが私のダルマだから」という使い方
ダルマに沿うような行動を、意思を使って選び取ることにより、アンタッカラナ・シュッディが得られ、それがモークシャへと繋がるアートマ・ヴィチャーラのできる心を作ってくれる。
2.プルシャ・アルタのひとつとして
4つのプルシャ・アルタのひとつとしてダルマという言葉を使う時には、
プンニャを増やしパーパを減らして、後により快適な経験を得る、
という限定的な意味になります。
ダルマに沿った行為をする目的が、後々のアルタ・カーマを得るためになっている、
ということもできます。
ゆえに、
後々のアルタ・カーマの達成を目的としてされるダルマの行為を、
サカーマ・カルマと呼び、
後々のアルタ・カーマの達成を目的としていないダルマの行為を、
アンタッカラナ・シュッディに繋がる、ニシュカーマ・カルマと呼ぶ、
ということが言えます。
日本や諸外国の場合と違って、インド人の場合は、
お祈りや社会的義務などの「私のダルマ」が明確で、
実際にそれを人生を通してしっかり実践してこられている人が多いので、
秩序としてのダルマを推奨するよりも、
プルシャ・アルタとしてのダルマを否定することを強調して教えるほうが
有効な場合が多いように見受けられますが、
日本人や諸外国の生徒に向けては、同じやり方は通用しませんね。
先生も生徒も、そこのところをきちんと認識する必要があるのですが、
実際はこのあたりがきちんと認識されておらず、
インド人の先生と日本人や諸外国の生徒の間でミスコミュニケーションが起きているケースを、多々目にします。
つまり、ダルマに沿った行為=お祈りをしたり、社会に貢献者として関わったりすること、を軽視して、フラフラしながらヴェーダーンタの勉強をしている(勉強しているフリにしかならないですけどね)、という残念なケースです。
そこの辺りを良く分かっておられるプージヤ・スワミジに直接教えてもらえた私はラッキーでした。。
このふたつの意味を認識しておくと、全体像が分かり易くなると思います。
1.秩序という意味において
「これが私のダルマだから」という使い方
ダルマに沿うような行動を、意思を使って選び取ることにより、アンタッカラナ・シュッディが得られ、それがモークシャへと繋がるアートマ・ヴィチャーラのできる心を作ってくれる。
2.プルシャ・アルタのひとつとして
4つのプルシャ・アルタのひとつとしてダルマという言葉を使う時には、
プンニャを増やしパーパを減らして、後により快適な経験を得る、
という限定的な意味になります。
ダルマに沿った行為をする目的が、後々のアルタ・カーマを得るためになっている、
ということもできます。
ゆえに、
後々のアルタ・カーマの達成を目的としてされるダルマの行為を、
サカーマ・カルマと呼び、
後々のアルタ・カーマの達成を目的としていないダルマの行為を、
アンタッカラナ・シュッディに繋がる、ニシュカーマ・カルマと呼ぶ、
ということが言えます。
日本や諸外国の場合と違って、インド人の場合は、
お祈りや社会的義務などの「私のダルマ」が明確で、
実際にそれを人生を通してしっかり実践してこられている人が多いので、
秩序としてのダルマを推奨するよりも、
プルシャ・アルタとしてのダルマを否定することを強調して教えるほうが
有効な場合が多いように見受けられますが、
日本人や諸外国の生徒に向けては、同じやり方は通用しませんね。
先生も生徒も、そこのところをきちんと認識する必要があるのですが、
実際はこのあたりがきちんと認識されておらず、
インド人の先生と日本人や諸外国の生徒の間でミスコミュニケーションが起きているケースを、多々目にします。
つまり、ダルマに沿った行為=お祈りをしたり、社会に貢献者として関わったりすること、を軽視して、フラフラしながらヴェーダーンタの勉強をしている(勉強しているフリにしかならないですけどね)、という残念なケースです。
そこの辺りを良く分かっておられるプージヤ・スワミジに直接教えてもらえた私はラッキーでした。。