ビッグクエスチョンズ 哲学
サイモン・ブラックバーン (著)
哲学に関する、20の根本的な問い=ビッグクエスチョンをまとめた本です。
本書に収められている20の問いだけを書き出して、
ヴェーダーンタの視点から答えてみました。
*以下の文を読んだだけで、ヴェーダーンタを分かったような気分になったり、分かったような話をしたりするのはやめてくださいね。ヴェーダーンタとは、真実を知りたいと思った人が、教えの主題と教え方の手法を正しく知る先生から、きちんと学ぶものです。
この文章に限らず、私が公に発表している文章は全て、ヴェーダーンタを学ぶきっかけになれば、と思って書いています。
1.精神とは何か?
自分という言葉の本質的な意味である、
「意識という存在」のことを、
人々は知りたがりますね。
人間は皆、それについて、もともと無知であるし、
それを知るための適切な知る手段が無い。
自分という確たる存在があって、初めて疑問を持てたりするのに、
自分という存在の本質を知らないがゆえに、
自分という存在は、その存在自体が、疑わしい、疑問の対象になってしまうのです。
2.人間性は変えられるか?
人間は、生まれてきて、物理的に成長するだけではなく、
精神的に、より人間らしく成長する可能性を持っています。
人間らしく成長するかしかいか、それを自分で決めるために、
自由意志を与えられています。
また、成長を促すための方法も、ヴェーダの中で与えられたいます。
人間のゴールは、人間として成長すること。
ユートピアについて書かれていますが、
自分が人間として成長することであり、他人を良くさせて満足しようとするのは、
迷走する宗教が危険な方向に走るのに、よくありがちなパターン。
そういう宗教を信じている人は、自分が満たされていないから、
他人に強制・矯正を強いるのです。
3.私たちは自由なのか?
自分という存在は、本質的に、ありとあらゆる制限から自由ですが、
それに関して無知であり、知る手段を持たないことから、
本質的に不自由である、身体や心が自分の本質だと誤認識して、
「私たちは自由なのか?」という哲学的な疑問を持ったりします。
4.私たちは何を知っているのか?
あなたたちが既に知っていることは、この世界の相対的なことばかりですから、
知っていることより、知らないこと、つまり、
「私たちは何に無知なのか」を知った方がいい。
「無知の知」の極意です。
もともと、自分の本質を知らないし、知る手段もない、
という事実を知れば、
では、どうしたら知れるのか?
なぜ、知らないといけないのか?
何が事実として正しいのか?
自分は本質的に、救済なんかを必要としている限られた存在なのか?
神様にお願いして、天国にでも連れて行ってもらわなければいけない、
そのような惨めな存在が自分の本質だ、と教える聖典を信じる意味があるのか?
とか、きちんと考えた方がいい。
5.私たちは理性的な動物か?
大きな個人差があります。私「たち」と一括りにするのは無理があります。
6.自分に対して嘘をつけるか?
自分が間違ったことをしている場合、
その事実を知っている自分からは逃れられない。
という状況がまずありきで、
そのうえで、自分を騙すことができるか、という意味でしょうね。
自分がされたら嫌なこと、例えば自分や自分の家族を殺されて食べられるとか。
そんな行為を自分が他にしているとき、
「でも~、そうじゃないと私幸せになれないもん」と自分に言い聞かそうとしても、
混乱した価値観の中にいることで、自由な自分をより見づらくしているし、
他を傷つけないと幸せになれない、というとても惨めな自己認識を持っていることが、
とっても惨めである。
7.どうして社会は存在するのか?
社会でも人でも何でも、世界にあるものは全て、
自分が消費するだけではなく、貢献者の立場になるよう努力しながら、
自分を成長させるために使うのが、賢い人の、世界との接し方です。
8.理解し合うことはできるか?
無知な人間同士が分かりあっても無益である。
変わりゆく実態のない現象を分かりあうことは、ひとときの安心しか生まない。
それはプルシャールタにはなり得ない。
9.機械は考えることが可能か?
この疑問と答えが、自分の幸せの向上にどの程度貢献するのかが疑問。
人間の身体や心も機械的だけど、スークシュマ・シャリーラの有無が違い。
与えられた情報から、与えられた判断基準に基づいて判断を下し、
与えられたアプトプットの方法で結果を出すのがコンピュータの仕事。
10.なぜ私たちは道徳的なのか?
自分が傷つけられたくない、という知識は全ての生き物がもっている。
自分と同じように、他も傷つけられたくないのだ、
という知識を先天的に持っている生命体を、ヴェーダでは人間と呼びます。
11.絶対的なものは存在するか?
相対的なものを相対的と呼べている、
自分という存在のことを、大概の哲学者・宗教者は見逃しています。
12.時間とは何か?
時間を対象化している、時間の中にいない、この自分とは何か?
に疑問の焦点を絞ることをお勧めします。
13.世界が世界であり続けるのはなぜ?
変化し続ける世界があり続けるのを、
変化しないで見続けている、この自分という存在が何者なのか?
ということのほうが、もっと大事な疑問。
14.なぜ何もないのではなく何かがあるのか?
何を否定しても、自分が絶対的に存在してしまっているからです。
15.空間を埋めているものとは?
空間は、時間は、どこに存在しているか?
全ては時空の中に存在するけど、
空間や時間を対象化している自分は、空間や時間の中にない。
直径0ミリの「ここ」、長さ0秒の「いま」は、自分という言葉の意味。
身体や心は時空の中にあれども、それを対象化している自分はその中にいない。
空間はひとつ。全宇宙空間はひとつ。
それは、自分という存在に、存在を得て、存在している。
16.美とは何か?
自分の心のありかたと対立しないもの。
17.神は必要か?
全てをひっくるめて、ひとつ、「全て」という概念で認識できなければ、
その全ての真実の話も、それが自分であるという話も、
ゆえに、自分という存在が完全に自由な存在であるという話もできない。
18.すべては何のためか?
自分の本質を知るためにある。
19.私にはどのような権利があるか?
権利というのはどうか知らないけど、
人間として生まれてきたら、
人間らしく成長できる「可能性」(ダルマ) と、
人間らしく成長した心によって、ヴェーダーンタという知る手段を使って、
完全に自由である自分を知れる「可能性」(モークシャ)があります。
人間らしく心を成長する方法は、自分の義務を果たすことだから、
次に、私の義務は何か?という問いが続くべきです。
20.死は恐ろしいものなのか?
「死=非存在」だと混乱している哲学者は多いけど、
死とは、身体に属するもので、
自分という存在のレベルに属するものではありません。
サイモン・ブラックバーン (著)
哲学に関する、20の根本的な問い=ビッグクエスチョンをまとめた本です。
本書に収められている20の問いだけを書き出して、
ヴェーダーンタの視点から答えてみました。
*以下の文を読んだだけで、ヴェーダーンタを分かったような気分になったり、分かったような話をしたりするのはやめてくださいね。ヴェーダーンタとは、真実を知りたいと思った人が、教えの主題と教え方の手法を正しく知る先生から、きちんと学ぶものです。
この文章に限らず、私が公に発表している文章は全て、ヴェーダーンタを学ぶきっかけになれば、と思って書いています。
1.精神とは何か?
自分という言葉の本質的な意味である、
「意識という存在」のことを、
人々は知りたがりますね。
人間は皆、それについて、もともと無知であるし、
それを知るための適切な知る手段が無い。
自分という確たる存在があって、初めて疑問を持てたりするのに、
自分という存在の本質を知らないがゆえに、
自分という存在は、その存在自体が、疑わしい、疑問の対象になってしまうのです。
2.人間性は変えられるか?
人間は、生まれてきて、物理的に成長するだけではなく、
精神的に、より人間らしく成長する可能性を持っています。
人間らしく成長するかしかいか、それを自分で決めるために、
自由意志を与えられています。
また、成長を促すための方法も、ヴェーダの中で与えられたいます。
人間のゴールは、人間として成長すること。
ユートピアについて書かれていますが、
自分が人間として成長することであり、他人を良くさせて満足しようとするのは、
迷走する宗教が危険な方向に走るのに、よくありがちなパターン。
そういう宗教を信じている人は、自分が満たされていないから、
他人に強制・矯正を強いるのです。
3.私たちは自由なのか?
自分という存在は、本質的に、ありとあらゆる制限から自由ですが、
それに関して無知であり、知る手段を持たないことから、
本質的に不自由である、身体や心が自分の本質だと誤認識して、
「私たちは自由なのか?」という哲学的な疑問を持ったりします。
4.私たちは何を知っているのか?
あなたたちが既に知っていることは、この世界の相対的なことばかりですから、
知っていることより、知らないこと、つまり、
「私たちは何に無知なのか」を知った方がいい。
「無知の知」の極意です。
もともと、自分の本質を知らないし、知る手段もない、
という事実を知れば、
では、どうしたら知れるのか?
なぜ、知らないといけないのか?
何が事実として正しいのか?
自分は本質的に、救済なんかを必要としている限られた存在なのか?
神様にお願いして、天国にでも連れて行ってもらわなければいけない、
そのような惨めな存在が自分の本質だ、と教える聖典を信じる意味があるのか?
とか、きちんと考えた方がいい。
5.私たちは理性的な動物か?
大きな個人差があります。私「たち」と一括りにするのは無理があります。
6.自分に対して嘘をつけるか?
自分が間違ったことをしている場合、
その事実を知っている自分からは逃れられない。
という状況がまずありきで、
そのうえで、自分を騙すことができるか、という意味でしょうね。
自分がされたら嫌なこと、例えば自分や自分の家族を殺されて食べられるとか。
そんな行為を自分が他にしているとき、
「でも~、そうじゃないと私幸せになれないもん」と自分に言い聞かそうとしても、
混乱した価値観の中にいることで、自由な自分をより見づらくしているし、
他を傷つけないと幸せになれない、というとても惨めな自己認識を持っていることが、
とっても惨めである。
7.どうして社会は存在するのか?
社会でも人でも何でも、世界にあるものは全て、
自分が消費するだけではなく、貢献者の立場になるよう努力しながら、
自分を成長させるために使うのが、賢い人の、世界との接し方です。
8.理解し合うことはできるか?
無知な人間同士が分かりあっても無益である。
変わりゆく実態のない現象を分かりあうことは、ひとときの安心しか生まない。
それはプルシャールタにはなり得ない。
9.機械は考えることが可能か?
この疑問と答えが、自分の幸せの向上にどの程度貢献するのかが疑問。
人間の身体や心も機械的だけど、スークシュマ・シャリーラの有無が違い。
与えられた情報から、与えられた判断基準に基づいて判断を下し、
与えられたアプトプットの方法で結果を出すのがコンピュータの仕事。
10.なぜ私たちは道徳的なのか?
自分が傷つけられたくない、という知識は全ての生き物がもっている。
自分と同じように、他も傷つけられたくないのだ、
という知識を先天的に持っている生命体を、ヴェーダでは人間と呼びます。
11.絶対的なものは存在するか?
相対的なものを相対的と呼べている、
自分という存在のことを、大概の哲学者・宗教者は見逃しています。
12.時間とは何か?
時間を対象化している、時間の中にいない、この自分とは何か?
に疑問の焦点を絞ることをお勧めします。
13.世界が世界であり続けるのはなぜ?
変化し続ける世界があり続けるのを、
変化しないで見続けている、この自分という存在が何者なのか?
ということのほうが、もっと大事な疑問。
14.なぜ何もないのではなく何かがあるのか?
何を否定しても、自分が絶対的に存在してしまっているからです。
15.空間を埋めているものとは?
空間は、時間は、どこに存在しているか?
全ては時空の中に存在するけど、
空間や時間を対象化している自分は、空間や時間の中にない。
直径0ミリの「ここ」、長さ0秒の「いま」は、自分という言葉の意味。
身体や心は時空の中にあれども、それを対象化している自分はその中にいない。
空間はひとつ。全宇宙空間はひとつ。
それは、自分という存在に、存在を得て、存在している。
16.美とは何か?
自分の心のありかたと対立しないもの。
17.神は必要か?
全てをひっくるめて、ひとつ、「全て」という概念で認識できなければ、
その全ての真実の話も、それが自分であるという話も、
ゆえに、自分という存在が完全に自由な存在であるという話もできない。
18.すべては何のためか?
自分の本質を知るためにある。
19.私にはどのような権利があるか?
権利というのはどうか知らないけど、
人間として生まれてきたら、
人間らしく成長できる「可能性」(ダルマ) と、
人間らしく成長した心によって、ヴェーダーンタという知る手段を使って、
完全に自由である自分を知れる「可能性」(モークシャ)があります。
人間らしく心を成長する方法は、自分の義務を果たすことだから、
次に、私の義務は何か?という問いが続くべきです。
20.死は恐ろしいものなのか?
「死=非存在」だと混乱している哲学者は多いけど、
死とは、身体に属するもので、
自分という存在のレベルに属するものではありません。