彼女の本はいくつか読んでみましたが、
ヴェーダーンタの視点から見たら、
この本は哲学の限界を良く表していると思います。
彼女が明確にしたくてずっと考えていた主題は、
そっくりそのままヴェーダーンタの主題として明確にされていることから、
彼女が生きている間にヴェーダーンタに「正しく」向き合えなかったことはとても残念ですが、それも残酷な人生の運命。
運命とは、自分の思考に支えられた意思によって行われた行動の結果によって形成されているのだから、誰も責めることは出来ません。。
残酷人生論 池田晶子(著)
ヴェーダーンタは、「宗教の哲学的側面」と言うことも出来ますが、
しかし、ヴェーダーンタは、哲学でも宗教でもありません。
ゆえに、ヴェーダーンタを勉強すると、哲学とは何か、宗教とは何か、
というのがくっきり分かります。
哲学とは、私の本質、世界の本質、神とは何か、などといった、
普遍的な真実を知ろうとすることから始まり、それについて憶測することです。
宗教は様々な定義が可能ですが、信じるしかないもの、という点では、
どのような定義でも概ね共通しています。
池田晶子という人は、彼女自身が個人的に持つことになって、
自分とは何か?世界とは何か?自分というこの存在とは何か?
といった哲学的な疑問に、自分の「考え」だけを頼りに思考を巡らせる、
という、本来の意味での「哲学」をされている方です。
そして、その哲学思考の過程を文章にされているのですが、
とても筆の立つ方なので、憶測による普遍的真実の問いかけ、という
「哲学」の可能性と限界をくっきり書き出されています。
もちろん、ヴェーダーンタを伝統的教授法に沿ってしっかり勉強した人でないと、
この「哲学の輪郭」は見ることは出来ませんが。
彼女の著書の中で、「思索する」という言葉の英語が、
「投機する」と同じ「speculate」であることに困惑を表しているコラムがありました。
自分のしている哲学と、金儲け目当ての投機という行為が、
なぜ同じ言葉なのだ?ということです。
思索するのも投機するのも、どちらも、
「不確かな根拠に基づいて、思索・推測・臆測する」という点では同じなので、
英語はそのあたりを良く言い当ててると、私は感心したものですが、
真実への問いかけを、「考え」だけに頼って真剣にしている彼女には、
納得いかないのも分かります。
全てを対象化できる、この対象化できない、対象化する必要もない、
「自分の本質」という存在は、対象化できないゆえに、
メタフィジカルな主題となるのは当然だけど、
では、その真実という存在を知る為に、どのプラマーナ(知る手段)を使うのか?
真実について、「知らない」というのが全人類共通の前提にあり、
さらに「知る由もない」というのも前提になっている。
思考を巡らすも、フィジカルなデータを元にしたものしか論理的とは呼べません。
そこから離れて憶測してみたり、瞑想を深めて何かしらの体験を待ってみたりしても、
「speculate」の範疇です。
ゆえに、自分の外にあるプラマーナの必要性を認識すること、
この認識こそが「無知の知」と呼ばれるべきだと、私は勝手に思っています。
普通の哲学者のおっさん達は「身の程を知れ」くらいにしか解説していませんけどね。
彼女が「speculate」に当惑していたのは、
プラマーナの必要性をまだ認識できていなかったからに他なりません。
慶応の哲学科を出ていても、そんなものがあると知る由もないでしょうし、
もし知る機会があったとしても、高慢ちきな人には到底受け入れられません。
彼女は私がインドにいた頃に夭折されています。
ああ、勿体ない。会ってヴェーダーンタの話がしたかった。
でも、彼女の「池田某」と呼ばれる体と心では、
ヴェーダーンタに正しく向き合えることは出来なかったのだろうな、
と思います。
今頃既に、精神性に著しく傾倒した心を持つ体を得ていて、
私のところにヴェーダーンタを勉強しに来る日も近いのでは?
と、残念を相殺するために、彼女が逝き急いだ理由を憶測しています。。。
デリーにて、搭乗を待ちながら。
ヴェーダーンタの視点から見たら、
この本は哲学の限界を良く表していると思います。
彼女が明確にしたくてずっと考えていた主題は、
そっくりそのままヴェーダーンタの主題として明確にされていることから、
彼女が生きている間にヴェーダーンタに「正しく」向き合えなかったことはとても残念ですが、それも残酷な人生の運命。
運命とは、自分の思考に支えられた意思によって行われた行動の結果によって形成されているのだから、誰も責めることは出来ません。。
残酷人生論 池田晶子(著)
ヴェーダーンタは、「宗教の哲学的側面」と言うことも出来ますが、
しかし、ヴェーダーンタは、哲学でも宗教でもありません。
ゆえに、ヴェーダーンタを勉強すると、哲学とは何か、宗教とは何か、
というのがくっきり分かります。
哲学とは、私の本質、世界の本質、神とは何か、などといった、
普遍的な真実を知ろうとすることから始まり、それについて憶測することです。
宗教は様々な定義が可能ですが、信じるしかないもの、という点では、
どのような定義でも概ね共通しています。
池田晶子という人は、彼女自身が個人的に持つことになって、
自分とは何か?世界とは何か?自分というこの存在とは何か?
といった哲学的な疑問に、自分の「考え」だけを頼りに思考を巡らせる、
という、本来の意味での「哲学」をされている方です。
そして、その哲学思考の過程を文章にされているのですが、
とても筆の立つ方なので、憶測による普遍的真実の問いかけ、という
「哲学」の可能性と限界をくっきり書き出されています。
もちろん、ヴェーダーンタを伝統的教授法に沿ってしっかり勉強した人でないと、
この「哲学の輪郭」は見ることは出来ませんが。
彼女の著書の中で、「思索する」という言葉の英語が、
「投機する」と同じ「speculate」であることに困惑を表しているコラムがありました。
自分のしている哲学と、金儲け目当ての投機という行為が、
なぜ同じ言葉なのだ?ということです。
思索するのも投機するのも、どちらも、
「不確かな根拠に基づいて、思索・推測・臆測する」という点では同じなので、
英語はそのあたりを良く言い当ててると、私は感心したものですが、
真実への問いかけを、「考え」だけに頼って真剣にしている彼女には、
納得いかないのも分かります。
全てを対象化できる、この対象化できない、対象化する必要もない、
「自分の本質」という存在は、対象化できないゆえに、
メタフィジカルな主題となるのは当然だけど、
では、その真実という存在を知る為に、どのプラマーナ(知る手段)を使うのか?
真実について、「知らない」というのが全人類共通の前提にあり、
さらに「知る由もない」というのも前提になっている。
思考を巡らすも、フィジカルなデータを元にしたものしか論理的とは呼べません。
そこから離れて憶測してみたり、瞑想を深めて何かしらの体験を待ってみたりしても、
「speculate」の範疇です。
ゆえに、自分の外にあるプラマーナの必要性を認識すること、
この認識こそが「無知の知」と呼ばれるべきだと、私は勝手に思っています。
普通の哲学者のおっさん達は「身の程を知れ」くらいにしか解説していませんけどね。
彼女が「speculate」に当惑していたのは、
プラマーナの必要性をまだ認識できていなかったからに他なりません。
慶応の哲学科を出ていても、そんなものがあると知る由もないでしょうし、
もし知る機会があったとしても、高慢ちきな人には到底受け入れられません。
彼女は私がインドにいた頃に夭折されています。
ああ、勿体ない。会ってヴェーダーンタの話がしたかった。
でも、彼女の「池田某」と呼ばれる体と心では、
ヴェーダーンタに正しく向き合えることは出来なかったのだろうな、
と思います。
今頃既に、精神性に著しく傾倒した心を持つ体を得ていて、
私のところにヴェーダーンタを勉強しに来る日も近いのでは?
と、残念を相殺するために、彼女が逝き急いだ理由を憶測しています。。。
デリーにて、搭乗を待ちながら。