サピエンス全史(上・下巻)文明の構造と人類の幸福
ビル・ゲイツもお薦めする話題の本だと紹介され、
どないやもんやねんと、まずこの本を開いて気付いたのは、
まえがきが無い!
どうしてそんなことが許されるのでしょうか?!
アメリカで私は「本において前書きは一番重要。まず前書きを読め」と教育されました。
この本が、なぜ、どような立場の人が、どのような視点で、何について書かれているか、
などのエッセンスが前書きに書かれてあるからです。
サンスクリット語の文献においては、アヌバンダ・チャトゥシュタヤといって、
本を書く前・読む前にはっきりしておくべき4つの点というものがあります。
1.विषयः 主題
2.फलम् この本を世に出すこと、読んだ人におけるメリット
3.अधिकारी この本の読者対象
4.सम्बन्धः 主題と結果の関係、本と主題の関係等。
まえがきが無いなら、あとがきをチェックしてみよう。
なんとそのまま、ヴェーダーンタの紹介のまえがきのようでした。
やっぱり人間の行きつくところの全ての限界を見尽くしたら、
ヴェーダーンタしか残っていません。
あとがき
...人間には数々の驚くべきことができるものの、私たちは自分の目的が不確かなままで、相変わらず不満に見える。
...どこへ向かっているのはか誰にも分からない。
私たちはかつてなかったほど強力だが、それほどの力を何に使えばいいかは、ほとんど見当もつかない。
...物理の法則しか連れ合いが無く、(中略)自分自身の快適さや楽しみ以外はほとんど追い求めないが、それでもけっして満足できずにいる。
自分が何を望んでいるかもわからない、不満で無責任な神々ほど危険なものがあるだろうか?(改行、太字は筆者が付加)
もう、ヴェーダーンタを勉強するしかない!と著者に教えてあげたいです。
物理の法則しか連れ合いがいないから、ヴェーダーンタという知る手段が必要なのです。知る手段ゆえに、ヴェーダーンタは信じるものでなく、知性をもって理解するものです。
シッダーンタ(最終的に勝ち残る正しい知識、とでも訳しましょうか)と言われているだけに、最後に笑うのはヴェーダーンタの知識なのです。
自分が何を望んでいるかもわからない。
そしたら、立ち止まって、自分が何を望んでいるか、
プルシャアルタを明確にするべく、きっちり考えるべき。
無責任でいるから、きっちり考えられないし、不満なままなのです。
普遍な価値観に価値を置いて生活することが、責任ある生き方です。
責任ある生き方によってのみ、自己矛盾や自己嫌悪から自由な平和な心が作られ、
その心をによってのみ、自分が何を本当に望んでいるのかが分かり、
不満とは何だったかも、おのずと分かるのです。
著者のプロフィールもチェックしてみると、無料のYoutube講座もあるらしい。
日本人じゃ絶対に書けないな、と思わせる切り口と語り口。私には愉快。
原文が読んでみたい。
訳者の柴田裕之さんの訳本のタイトルも面白そうなものばかり。
著者にも訳者にも、お会いしてみたい。
目次を読んで面白そうなところだけナナメ読みするつもりが、
読み易さと面白さにひかれて、心の中でツッコミをいれまくりながら、
一日で殆ど読破してしまった。
読んでから気付いたけど、原文のサブタイトルは、
A Brief History of Humankind
まぁ、読み進めやすくて面白い人類史です。
それに比べて、日本語訳文のサブタイトルは、
文明の構造と人類の幸福
これこそが、この本が他の人類史の本と違うところです。 グッジョブ。
著者は、サピエンスが他の人類から枝分かれした要因を、
「認知革命」と名付け、
サピエンスが頭の中で虚構を作り、その虚構に沿って集団で協力し合えるようになったことが、他の人類を凌駕し、独自の進化を遂げるきっかけとなった、というように展開しています。
しかし、著者の言う認知革命よりも、
もっと根本的な人間としての認知的特徴があります。
それは、
アヒムサーに代表される、共感できる能力。
そして、最も大事なのは、自己認識能力。
自分が自分をどう知っているか。
これが人間にとって最重要事項なのです。
だから、汝自身を知れ、なのです。
「思いあがるな、自分がどの程度か知れ」といった、
浅はかな意味で解釈する哲学者は多いですが、
ここで議論されているのは、
「自分の本質を知れ。あなたはちっぽけでか弱い身体や心ではない」
という意味においてです。
自己認識と自己の本質の知識は、
ヴェーダーンタの主題とするところなので、クラスでいつも教えていますし、
これからヴェーダーンタを紹介する本を書こうと考えているので、
そこで展開しようと思っています。長くなりますから。。
さらに、この根本的な認知革命は、
これからのグローバライゼーションの問題の解決の糸口となります。
経済、国家、宗教などの名のもとに、
人間がダルマに反した行動をとるとき、衝突が起きます。ゆえに、衝突を乗り越える糸口は、
アヒムサーに代表される、ダルマにあります。
あらゆる生き物は、殺されたり、騙されたり、傷つけられたくない、
ということを、全ての人間は知っていて、
それを逆手にとって、他人を欺いた場合、それは自己認識において、
自分を「欺く嫌でダメな奴」と認識しなければならなってしまう。
これから、経済的に発展しながら、あらゆる国家や宗教に属する人々が、
調和を持って平和に協力しながら生きていくためには、
貨幣・政治・宗教を超越した、人間として基本的な価値観である、
共感・思いやり・アヒムサー・ダルマといった、
経典や法律の存在も必要ない、子供でも分かる、人間の心を、
基本的価値として、価値観を持つことです。
あと、著者のユヴァル・ノア・ハラリ君は、
典型的な現代イスラエルの知識層的な考え方の持ち主で、
仏教に傾倒しているように見えるけど、
ヒンドゥーについても、もうちょっとちゃんと勉強したほうがいいね。
まず、ヒンドゥー教を多神教と呼んでいるところから、全くの素人である。
君んとこの国にもヴェーダーンタを教えられる生徒は、
片手で数えられるほどだけど、いることにはいるから、教えてもらいな、
と言いたい。
ヒンドゥー教のサドゥあるいはサンニャーシ(行者)は、アートマンと一体化し、悟りを得るために人生を捧げる。
全ての本質(アートマン )は自分の本質(アートマン)なのだから、
ふたつ別々のものではないのだから、一体化もできません!
だから、non-dual、アドヴァイタなんですよ。
... 限られた力を持つ神々に近づく。ガネーシャやラクシュミー、サラスヴァティ―といった神は、力が包括的ではなく限られているからこそ、関心を持ち、えこひいきをする。分からない人には、そーゆー言い方しか分からないのでしょうが。。
ここにあるもの全ての法則がイーシュヴァラの表れですから、
そこに「えこひいき」なんてありえません。
あなたの状況が好ましくなかったとしても、
それは物理や心理やなにやらの法則に沿って出てきた結果であり、
神様のえこひいきとか気まぐれではありません。
全ての法則の中でも、障害物や富・学問など、
祈る人の特定の関心事に関わる法則について、
ガネーシャやラクシュミー、サラスヴァティ―という名前で呼ばれているだけで、
それら神々の力が限られているのではなく、人間の視野が限られているのです。
部分引用したけれども、全体的な論点としては、現実的な状況に沿ったものだし、
それは、世界中の多くの人が見習うべき点なので、ここでも紹介したい。
多神教信者は、一方では至高の、完全に利害を超えた神的存在を、もう一方ではえこひいきする、力の限られた多数の神的存在を信じているので、或る神の信奉者が他の神々の存在や効力を受け入れるのはわけもない。多神教は本来、度量が広く、「異端者」や「異教徒」を迫害することはめったにない。
ヴェーダの文化について本当にきちんと分かりたければ、
伝統に沿った教授法を知るヴェーダーンタの先生にアプローチするしかないが、
大学でお勉強されているうちは、こんな感じの理解になってしまってしょうがない。
話は反れますが、世界各国の大学で勉強されて来た方々から、
ちょくちょく質問を受けますが、彼らの基本的レベルの低いことったら!
グルクラム(伝統的なヴェーダの勉強をする施設)で勉強してきた人には
一言で説明できるような内容でも、
大学の立派な学位をもっていらっしゃる方々には、長々と噛んで含めて説明しても、
基本的・伝統的な教養が抜けているので、あまり噛み合いません。
私の親切心を利用して、タダで丁寧に教えてもらって、
それを自分たちのお金や学位に替えているくせに、
プライドだけは高い、大学の人々の相手をするのは、やっぱりちょっと、
どうなのかな~、って思ってしまうことがあります。
また、著者の(もしくは訳者の?原文を読んでみないと分からないけど)
一神教と二元論、とくに二元論の言葉の使い方が、なっていない。
著者は、一神教=善の神のみ、二元論=善と悪が存在する、
という前提で話を進めていますが、
ヴェーダーンタでは、
一神教でも、「神様」が「私」とは別の存在なら、立派な二元論です。
「私」と「それ以外(それが神であろうと世界であろうと他人であろうと)」
これでふたつ、二元論です。
ヴェーダーンタは、そこなへんの知ったかぶりの日本人から、
よく「一元論」とか言われますね。
まーそれでもいいけど、
自分で本読んだりネットで調べたりして、
自分なりに勝手に分かった気になるのが危険なのです。
ちゃんとしたヴェーダーンタの伝統的な先生について、ちゃんと勉強してくださいね。
仏教についても、「涅槃の境地に達し」と言ってる時点で、
それは来ては去っていくという本質の経験の範疇である、
という、おきまりの地雷を踏んでも気付かないのが、典型的。
経験を見ている自分は来たり去ったりしないだろう?
ユヴァル・ノア・ハラリ君に会って話がしてみたい。
まー、ちゃんと勉強してくださーい。