このタイトルを見て、
ヴェーダーンタを正しく勉強し理解している人なら、
すっきり、しっくり来るはずです。
「ダルマのゴールはヴェーダーンタ」の方が、
よりヴェーダの教えの言葉に忠実で、正直で、誤解を招かない、的確な表現です。
ヴェーダの最後の部分で教えられているモークシャの為に、
ヴェーダの前の部分でダルマが教えられているのですから。
「ヨーガのゴールはヴェーダーンタです」じゃないの?!
と感じる人は、 「 ヨーガ」という言葉に囚われすぎて、ヨーガの呪縛から、
ヴェーダーンタとは何かがクリアーに見えていないのかもしれません。
ヨーガからヴェーダーンタに来た人には、
自分が信念を持っている「ヨーガ」を完全にしたくて、
ヴェーダーンタをヨーガの座学として勉強している人が多いのでは?と感じています。
ヨーガを勉強している人は、ヨーガへの思い入れがとても強い人が多いですが、
その一方で、
結局ヨーガにどれだけの意味があるのか、ヨーガが何に繋がっているのか、
自分が教えている立場の人でさえ、分からなくて迷っている、
という状況も一般的です。
そこに、救世主のように、「ヨーガのゴールはヴェーダーンタ」 と言われたら、
縋りつきたくなり、「自分のヨーガは正しいのだ!」と認証してもらいたいから、
ヴェーダーンタを勉強する、という形になってしまっているのだと思います。
結局どこまで行っても、ヨーガが大好きで、ヨーガが中心で、
ヴェーダーンタはヨーガを輝かせるアクセサリーのようなもの、
ヨーガを完成させてくれる黄金バッジのようなもの、と思っていないか?
と自己確認する必要があるかもしれませんね。
きっかけは何であれ、ヴェーダーンタに出会えたことは、
この上なくラッキーなことですから、
ヨーガ等のきっかけに囚われすぎて本質が見えなくなっている、
ということにならないように、何のためにヴェーダーンタを勉強しているのかを、
見直す材料としてもらえるよう、これを書いています。
マットの上での体操だけでなく、マットの上での「気付き」や「幸福感」などや、
マットの外でもどーたらとか、自分やヨガティーチャー自慢の「オレ哲学」「わたし哲学」が、 ヨーガという言葉を核として雪だるま式にこびりついています。
(そもそもマット内・マット外って、マットが基準になってるのがアホくさい。 )
そして、ヨーガをしている人は、ヨーガへの思い入れが執着のように強いので、
今までの理解を完全に手放して、新しい定義を受け入れることが困難です。
特に、ヨーガスートラなどの、ヴェーダーンタと同じボキャブラリーを使う文献を勉強している人には、ヨーガとヴェーダーンタの分別は、困難を極めます。
ギーターで教えられているカルマ・ヨーガと、八支則のヨーガと、
マットの上のヨーガを全てこじつけて理解している人も多いと聞きます。
だから、今の日本では、ヨーガという言葉を使ってヴェーダーンタを教えるのは、
避けた方がいい、というのが、 日本に帰って来て、現状を知ってからの感想です。
「ヨーガのゴールはヴェーダーンタです」というキャッチフレーズは、
もうお手上げレベルの混乱を巻き起こしているように私には見受けられます。
言葉はコミュニケーションの為にあります。
コミュニケーション・ギャップを生むような言葉は、
出来るだけ避けなければならない、というのは基本中の基本です。
正確さが要求されるコミュニケーションなら、なおさらです。
正確なコミュニケーションが必要なヴェーダーンタの授業では、
わざわざ誤解を生むような言葉を使うようなことは避けるべきです。
実際、日本に来てから、パブリックで話すときには、
ヨーガという言葉の使用は極力避けています。
そして、
ヨーガという言葉を一切使わなくても、モークシャとは何か、
だけでなく、モークシャをゴールに見据えた生き方は、
完全にコミュニケートできます。
バガヴァッド・ギーターの始まりに、
シャンカラーチャーリヤが、ヴェーダの全体像、
すなわちギーターの全体像を説明するコメンタリーを書いています。
もちろんそれは、モークシャと、モークシャをゴールに見据えたふたつの生き方についてです。
そのコメンタリーの中でシャンカラーチャーリヤは、
ヨーガという言葉を一切使っていません。
何度も言いますが、ヨーガという言葉を使わなくても、
モークシャに関わる知識の全ては、コミュニケートできます。
そもそも、ヨーガという言葉の意味の定義には、ありとあらゆるものがあります。
また、ヨーが哲学の教えるモークシャやイーシュワラは、
ヴェーダーンタのそれと全く違います。 この点が認識されていないから、ヨーガとヴェーダーンタが安易に混同されるのだと思います。
私のヴェーダーンタのクラスのタイトルには、
ヨーガをいう言葉を使うのも避けていますし、
ヴェーダーンタのキャンプ等にヨーガのクラスを入れるのも、
混乱を招く元なので避けています。
(自己の心身の管理にどの手法を使うかは自由ですから、ヨーガなり何なり、個人に合ったものを個人的に授業時間外にするのは、自由にしてもらっています。)
ヨーガという言葉の再定義を、一般向けに図ってみても、
結果的に失敗しているとしか言えないのが現状です。
「ヨーガとはただマットの上でするだけのものではないことが分かりました」
ぐらいでは、再定義がきちんと図れたことにはなりません。
それが証拠に、ヴェーダーンタをヨーガの座学だと信じている人は多いと思います。
正直、ヴェーダーンタのクラスを、座学です、と紹介されたら、
座学って?ヴェーダーンタのクラスって日本では体操とセットにされてる?体操のクラスだと勘違いする人が来るようなものなの???と思いますね。
ヴェーダーンタに出会う前にも、ヨーガの名のもとに哲学的なことを、ヨガティーチャー達やSNSなどであれこれ十分聞かされている人が殆どでしょうし、そのような状況は、ヴェーダーンタを聴いた後にもずっと続くのですから、ヨーガという言葉を、ヴェーダーンタとごっちゃにされないようにするのが、教える立場の責任だと思っています。
ヨーガとヴェーダーンタがごっちゃになっている日本の現状については、
1時間くらいゆうに話せます。
ヨーガという言葉に付着しているあれこれに捕まっていては、
ヴェーダーンタの理解が進まなくなってしまうので、
きちんとまとめてお話ししたいと思っています。
ヨーガをしていてヴェーダーンタに出会えた人は日本では多いかも知れませんが、
それは、その人のダルマ(プンニャ)が、たまたまその人にはヨーガを通して、という形で実っただけのことで、ヴェーダーンタに連れて来てくれたのは、今世と前世までのプンニャなのです。十分なプンニャさえあれば、ヨーガを介さなくても、何らかの形でヴェーダーンタに辿り着きますし、インドでは私も含めそっちの方が一般的です。
真面目に生きる意味はあるの?
そもそも真面目に生きるって何?
人や動物に思いやりを持って、結局自分に何かいいことあるの?
人間VS人間、人間VS自然、という世界観。
「ダルマのゴールがモークシャ」というヴィジョンが無ければ、
人生は五里霧中です。
ヨーガとヴェーダーンタの混乱について、解くカギになりますので、
質問やご意見・ご感想はいつでもWelcomeです。
下のフォームをご利用ください。
ヴェーダーンタを正しく勉強し理解している人なら、
すっきり、しっくり来るはずです。
「ダルマのゴールはヴェーダーンタ」の方が、
よりヴェーダの教えの言葉に忠実で、正直で、誤解を招かない、的確な表現です。
ヴェーダの最後の部分で教えられているモークシャの為に、
ヴェーダの前の部分でダルマが教えられているのですから。
「ヨーガのゴールはヴェーダーンタです」じゃないの?!
と感じる人は、 「 ヨーガ」という言葉に囚われすぎて、ヨーガの呪縛から、
ヴェーダーンタとは何かがクリアーに見えていないのかもしれません。
ヨーガからヴェーダーンタに来た人には、
自分が信念を持っている「ヨーガ」を完全にしたくて、
ヴェーダーンタをヨーガの座学として勉強している人が多いのでは?と感じています。
ヨーガを勉強している人は、ヨーガへの思い入れがとても強い人が多いですが、
その一方で、
結局ヨーガにどれだけの意味があるのか、ヨーガが何に繋がっているのか、
自分が教えている立場の人でさえ、分からなくて迷っている、
という状況も一般的です。
そこに、救世主のように、「ヨーガのゴールはヴェーダーンタ」 と言われたら、
縋りつきたくなり、「自分のヨーガは正しいのだ!」と認証してもらいたいから、
ヴェーダーンタを勉強する、という形になってしまっているのだと思います。
結局どこまで行っても、ヨーガが大好きで、ヨーガが中心で、
ヴェーダーンタはヨーガを輝かせるアクセサリーのようなもの、
ヨーガを完成させてくれる黄金バッジのようなもの、と思っていないか?
と自己確認する必要があるかもしれませんね。
きっかけは何であれ、ヴェーダーンタに出会えたことは、
この上なくラッキーなことですから、
ヨーガ等のきっかけに囚われすぎて本質が見えなくなっている、
ということにならないように、何のためにヴェーダーンタを勉強しているのかを、
見直す材料としてもらえるよう、これを書いています。
ヨーガという言葉
百人の人に「ヨーガって何?」とたずねると、百通りの答えが返って来るでしょう。マットの上での体操だけでなく、マットの上での「気付き」や「幸福感」などや、
マットの外でもどーたらとか、自分やヨガティーチャー自慢の「オレ哲学」「わたし哲学」が、 ヨーガという言葉を核として雪だるま式にこびりついています。
(そもそもマット内・マット外って、マットが基準になってるのがアホくさい。 )
そして、ヨーガをしている人は、ヨーガへの思い入れが執着のように強いので、
今までの理解を完全に手放して、新しい定義を受け入れることが困難です。
特に、ヨーガスートラなどの、ヴェーダーンタと同じボキャブラリーを使う文献を勉強している人には、ヨーガとヴェーダーンタの分別は、困難を極めます。
ギーターで教えられているカルマ・ヨーガと、八支則のヨーガと、
マットの上のヨーガを全てこじつけて理解している人も多いと聞きます。
だから、今の日本では、ヨーガという言葉を使ってヴェーダーンタを教えるのは、
避けた方がいい、というのが、 日本に帰って来て、現状を知ってからの感想です。
「ヨーガのゴールはヴェーダーンタです」というキャッチフレーズは、
もうお手上げレベルの混乱を巻き起こしているように私には見受けられます。
言葉はコミュニケーションの為にあります。
コミュニケーション・ギャップを生むような言葉は、
出来るだけ避けなければならない、というのは基本中の基本です。
正確さが要求されるコミュニケーションなら、なおさらです。
正確なコミュニケーションが必要なヴェーダーンタの授業では、
わざわざ誤解を生むような言葉を使うようなことは避けるべきです。
実際、日本に来てから、パブリックで話すときには、
ヨーガという言葉の使用は極力避けています。
そして、
ヨーガという言葉を一切使わなくても、モークシャとは何か、
だけでなく、モークシャをゴールに見据えた生き方は、
完全にコミュニケートできます。
バガヴァッド・ギーターの始まりに、
シャンカラーチャーリヤが、ヴェーダの全体像、
すなわちギーターの全体像を説明するコメンタリーを書いています。
もちろんそれは、モークシャと、モークシャをゴールに見据えたふたつの生き方についてです。
そのコメンタリーの中でシャンカラーチャーリヤは、
ヨーガという言葉を一切使っていません。
何度も言いますが、ヨーガという言葉を使わなくても、
モークシャに関わる知識の全ては、コミュニケートできます。
そもそも、ヨーガという言葉の意味の定義には、ありとあらゆるものがあります。
また、ヨーが哲学の教えるモークシャやイーシュワラは、
ヴェーダーンタのそれと全く違います。 この点が認識されていないから、ヨーガとヴェーダーンタが安易に混同されるのだと思います。
私のヴェーダーンタのクラスのタイトルには、
ヨーガをいう言葉を使うのも避けていますし、
ヴェーダーンタのキャンプ等にヨーガのクラスを入れるのも、
混乱を招く元なので避けています。
(自己の心身の管理にどの手法を使うかは自由ですから、ヨーガなり何なり、個人に合ったものを個人的に授業時間外にするのは、自由にしてもらっています。)
ヨーガという言葉の再定義を、一般向けに図ってみても、
結果的に失敗しているとしか言えないのが現状です。
「ヨーガとはただマットの上でするだけのものではないことが分かりました」
ぐらいでは、再定義がきちんと図れたことにはなりません。
それが証拠に、ヴェーダーンタをヨーガの座学だと信じている人は多いと思います。
正直、ヴェーダーンタのクラスを、座学です、と紹介されたら、
座学って?ヴェーダーンタのクラスって日本では体操とセットにされてる?体操のクラスだと勘違いする人が来るようなものなの???と思いますね。
ヴェーダーンタに出会う前にも、ヨーガの名のもとに哲学的なことを、ヨガティーチャー達やSNSなどであれこれ十分聞かされている人が殆どでしょうし、そのような状況は、ヴェーダーンタを聴いた後にもずっと続くのですから、ヨーガという言葉を、ヴェーダーンタとごっちゃにされないようにするのが、教える立場の責任だと思っています。
ヨーガとヴェーダーンタがごっちゃになっている日本の現状については、
1時間くらいゆうに話せます。
ヨーガという言葉に付着しているあれこれに捕まっていては、
ヴェーダーンタの理解が進まなくなってしまうので、
きちんとまとめてお話ししたいと思っています。
ヨーガをしていてヴェーダーンタに出会えた人は日本では多いかも知れませんが、
それは、その人のダルマ(プンニャ)が、たまたまその人にはヨーガを通して、という形で実っただけのことで、ヴェーダーンタに連れて来てくれたのは、今世と前世までのプンニャなのです。十分なプンニャさえあれば、ヨーガを介さなくても、何らかの形でヴェーダーンタに辿り着きますし、インドでは私も含めそっちの方が一般的です。
真面目に生きる意味はあるの?
そもそも真面目に生きるって何?
人や動物に思いやりを持って、結局自分に何かいいことあるの?
人間VS人間、人間VS自然、という世界観。
「ダルマのゴールがモークシャ」というヴィジョンが無ければ、
人生は五里霧中です。
ヨーガとヴェーダーンタの混乱について、解くカギになりますので、
質問やご意見・ご感想はいつでもWelcomeです。
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