今ここにいる自分という意識的な存在は、
時間や空間を対象化しているがゆえに、
時間や空間の中にはいない、
あらゆる時間や空間から自由な存在、
時間や空間は自分という存在を基点として存在を得ている。
この事実に導いてくれるのが、ヴェーダーンタです。
(ここまでの散文は、サッダルシャナの訳ではなく、
今私がヴェーダーンタの紹介を自由に書いたものです。
サッダルシャナの本文と訳は一番下にあります。)
プージヤ・スワミジの本、「パブリック・トーク2」において、
このトピックに関して引用されいてる、
ラマナ・マハリシの「サッダルシャナ(सद्दर्शनम् [saddarśanam])」
からの一節を紹介します。
ネットで検索したら、誤字の含まれているものばかりだったので、
自分で打ち直し、日本語訳を入れてみました。
訳の前のサンスクリット語は、単語ごとに切って(पदच्छेदः)並べ替え(अन्वयः)をしています。
単なる打ち間違いではなく、サンスクリット語文法の知識の欠如による間違いが、
ネット上のブログなどで紹介されいてる多くのサンスクリット語に見られるのは、
残念なことです。インド人にこそ、ちゃんとサンスクリット語を勉強して欲しい。
भूतं भविष्यच्च भवत् स्वकाले तद्वर्तमानस्य विहाय तत्त्वम् ।
हास्या न किं स्याद् गतभाविचर्चा विनैकसङ्ख्यांगणनेव लोके॥17॥
bhūtaṃ bhaviṣyacca bhavat svakāle tadvartamānasya vihāya tattvam |
hāsyā na kiṃ syād gatabhāvicarcā vinaikasaṅkhyāṃ gaṇaneva loke||17||
भूतं भविष्यत् च स्वकाले भवत् [bhūtaṃ bhaviṣyat ca svakāle bhavat ]
過去と未来は、その時においては、現在です。
तद्वर्तमानस्य तत्त्वं विहाय [tadvartamānasya tattvam vihāya]
その現在という真実(つまり自分自身の本質)を抜きにして、
गतभाविचर्चा हास्या किं न स्यात् [gatabhāvicarcā hāsyā kiṃ na syāt]
過去や未来の話をするのは、笑いごとにしか過ぎません。
एकसङ्ख्यां विना गणना इव लोके [ekasaṅkhyāṃ vinā gaṇanā iva loke]
それは、1という数字なしに、数えることをするようなものです。
時間や空間を対象化しているがゆえに、
時間や空間の中にはいない、
あらゆる時間や空間から自由な存在、
時間や空間は自分という存在を基点として存在を得ている。
この事実に導いてくれるのが、ヴェーダーンタです。
(ここまでの散文は、サッダルシャナの訳ではなく、
今私がヴェーダーンタの紹介を自由に書いたものです。
サッダルシャナの本文と訳は一番下にあります。)
プージヤ・スワミジの本、「パブリック・トーク2」において、
このトピックに関して引用されいてる、
ラマナ・マハリシの「サッダルシャナ(सद्दर्शनम् [saddarśanam])」
からの一節を紹介します。
ネットで検索したら、誤字の含まれているものばかりだったので、
自分で打ち直し、日本語訳を入れてみました。
訳の前のサンスクリット語は、単語ごとに切って(पदच्छेदः)並べ替え(अन्वयः)をしています。
単なる打ち間違いではなく、サンスクリット語文法の知識の欠如による間違いが、
ネット上のブログなどで紹介されいてる多くのサンスクリット語に見られるのは、
残念なことです。インド人にこそ、ちゃんとサンスクリット語を勉強して欲しい。
भूतं भविष्यच्च भवत् स्वकाले तद्वर्तमानस्य विहाय तत्त्वम् ।
हास्या न किं स्याद् गतभाविचर्चा विनैकसङ्ख्यांगणनेव लोके॥17॥
bhūtaṃ bhaviṣyacca bhavat svakāle tadvartamānasya vihāya tattvam |
hāsyā na kiṃ syād gatabhāvicarcā vinaikasaṅkhyāṃ gaṇaneva loke||17||
भूतं भविष्यत् च स्वकाले भवत् [bhūtaṃ bhaviṣyat ca svakāle bhavat ]
過去と未来は、その時においては、現在です。
तद्वर्तमानस्य तत्त्वं विहाय [tadvartamānasya tattvam vihāya]
その現在という真実(つまり自分自身の本質)を抜きにして、
गतभाविचर्चा हास्या किं न स्यात् [gatabhāvicarcā hāsyā kiṃ na syāt]
過去や未来の話をするのは、笑いごとにしか過ぎません。
एकसङ्ख्यां विना गणना इव लोके [ekasaṅkhyāṃ vinā gaṇanā iva loke]
それは、1という数字なしに、数えることをするようなものです。
ヴィシュヌ・サハッスラ・ナーマ(ヴィシュヌの千の名前)の896番目: सनात् [sanāt] (在り続ける時間)の説明において、スワミジがこのシュローカを引用していたので、その前後の説明を私なりに要約・加筆したものも追記しておきますね。
時間がこの宇宙の不思議を生み出している。
宇宙の全ては動き続けることから成っていて、時間が無ければ動きは無い。
しかし、時間はविचार-अयोग्य [vicāra-ayogya]。時間とは何かを問いかけると、時間は無くなる。
全ての時間は現在にあるけれども、現在という時間の長さは無い。
数学的にどれだけ割っても、無限に陥る。時間の基礎である現在には限界がないから。
空間も同様。長さを構成しているのは点の連続。その点には面積も長さも無い。
時間の本質には、時間は無い。(壺の本質は土であり、壺ではないように。)
時空の制限の無いものが、時空の広がりを持てる原因を、マーヤー・シャクティ(不可能を可能にする力)と呼ぶ。
バガヴァーンは、सनात् [sanāt] であり、タイムレス。時間から自由な存在。