きっかけはどのような動機でも、
ヴェーダーンタに辿り着けたことは、祝福すべきことです。
せっかくヴェーダーンタに辿り着けたのだから、
今までの概念という曇りを取り払えるオープンさを持つ必要があります。
なぜ、ヴェーダーンタを勉強するのか?
「インド哲学にお詳しく」なりたいから?
それなら、大学にでも行って研究するのが良いでしょう。
いろんな本を自分で勝手に読んで独自の解釈で独学する手もあります。
ヴェーダーンタは、
「自分の本質を正しく知る」ための、
知る手段です。
ヴェーダーンタの言葉は、
正しい伝統に沿った手法で扱わなければ、
自分の姿を見せてはくれません。
ヴェーダーンタの言葉自体に詳しくなろとしているのではありません。
ヴェーダーンタの言葉によって照らし出される、本当の自分を知りたいのです。
「研究課題」や 「物知りになるための蘊蓄ネタ情報源」として、
ヴェーダーンタにアプローチしても、
ヴェーダーンタは、その人の本質を見せてはくれません。
「知る手段(プラマーナ)」として、
ヴェーダーンタにアプローチして初めて、
ヴェーダーンタは、本来の役割として機能します。
つまり、その人の本質を見せてくれます。
例えば、
研究対象として、鏡にアプローチする人は、
鏡の厚さや硬度、成分などに詳しくはなっても、
鏡が映し出している自分の姿は見えません。
その人の興味のピントが外れているからです。
自分を知る手段として鏡にアプローチして初めて、
そこに映し出される自分の姿を見ることができます。
それと同じことです。
ピント外れとは、
自分は結局何が欲しかったのか?(プルシャ・アルタ・ヴィヴェーカ)
ヴェーダーンタが何の為にあるのか?(プラマーナ・ヴィヴェーカ)
この点の理解が、まだ明瞭になっていない、
ということです。
伝統的手法を知る先生の助けがないまま、
ピントが外れたままで、
いくらヴェーダーンタの言葉を詳しく研究しても、
「難解な哲学」もしくは「勘違いスピリチュアル」に終わってしまうのです。