変わりゆく対象物を変わらずに観ているのは目。
様々な感覚器官からの情報を観ているのはひとつのマインド。
変わりゆくマインドの状態を、証人のように観ているのは、この意識という「私」。
その証人は、観ているのみで、観られていない。
その証人は、生死の証人でもあるゆえに、
その証人には生死は無く、
ゆえに天国も地獄もなく、
神様に救ってもらうことも救世主も必要ない。
この全宇宙の創造に必要な全知識の存在している、
ひとつの意識という存在が、その証人であるあなたである。
それがこの全宇宙の唯一の真実であるのにもかかわらず、
あなたは自分のことをやれ惨めだ可哀想だ被害者だ悲しい「うぅ、私可哀想」と言っている。
だからバガヴァーン・クリシュナは、今にも泣き崩れそうなアルジュナを見て、
ヘラヘラ笑いながら「あなたは悲しむことのないことで悲しんでいるのですよ。ちゃんと自分を知って」と言って教えを始めるのです。
家に居るのに「家に帰りたい」と言って泣いている人がいたら、どうしますか?
事実が分かっているのなら、寄り添って一緒に泣くなんてできない筈です。
もしそうするなら、アホ一人がアホ二人になるだけです。問題が増えているだけです。
優しさがあるなら、そして本人が望むのなら、唯一の解決法は、真実を教えてあげることだけです。それでしか、その人は本当に欲しいものを手に入れることはできないのですから。
それがヒンドゥーの神様がしていることです。
インドの聖典に一貫していることは、「自分に目を向けること」です。
社会を変えようとしたり、他人を変えようとしたり、改宗しようとしたり、
報復に全力を注いだり、そうするために自分達を組織的・軍事的・政治的に強くすることに全力を注いだりしているうちに、世界の宗教は(もちろん全部とは言わんよ)、もはや人間を幸せではなく不幸にする原因となってしまっています。
ほんまアホやなと心底思います。
元凶は、自分に目を向ける教えの欠落です。
目を向けるべき先は、他人でも、仮想敵でもなく、
ましてや天国や地獄でさえもなく、「自分」なのですよ。
ヒンドゥー教は、世界の大きな組織宗教とは違って、
組織のための教えではなく、個人のための教えを教えています。
