表題は、今朝マーンドゥーキャ・ウパニシャッドとシャンカラのコメンタリーに自分が書いた日本語訳をチェックするのも兼ねて、パーラーヤナ(朗読)をしていたときに見つけた、チャーンドーギャ・ウパニシャッドの引用です。
「なぜ、自分個人の話をしているときに、トータルであるविराट्の話を持ってい来るんだ?」という質問への答えとして、シャンカラーチャーリヤが引用しています。
自分という個人が、トータルであるイーシュヴァラと離れていない存在であるという事実の認識の為に、というのが答えで、それの根拠として「自分個人の頭が、トータルのविराट् पुरुष の頭と離れていない、そして、विराट्の頭だけ見て、それを全体だと勘違いしていると、あなたの頭は爆発して落っこちてしまっていたでしょう。私に訊きに来てちゃんとした答えを聞いていなければ。」という内容のチャーンドーギャ・ウパニシャッドの一節を引用しています。
「自分とはマインドか、否か」というポイントだけしか見えず、うんうんと頭をもたげて悩んでるだけで、イーシュヴァラの理解への努力がすっぽり抜けてしまっている。
これが、バガヴァーンの無いヨガや瞑想に傾倒した流れの中で溺れてしまう理由なのでは?と私が感じているポイントです。
ゆえに、イーシュヴァラの理解に特化した、ヴィシュヌ・サハッスラナーマの勉強会の展開が楽しみです。
祈りとイーシュヴァラについての学びのある生活により、食べること・働くこと、人と関わること、自分と関わること、全てにおいてにおいてイーシュヴァラを見て、感謝と畏怖を持って接する、という文化がなく、ただ「自分を知る」ために、瞑想や内観などで自分のマインドと向き合うことだけに集中していると、「自分はマインドか、否か」だけに答えを探してしまう、という傾向になるのでは?と感じました。
この点がまさに、昨日のクラスで展開していたポイントです。
イーシュヴァラ(全)を発見することなしに、自分(個)は受け入れられない
なぜ、バガヴァーンの千の名前を勉強して、バガヴァーンについて知ろうとしているのか?
バガヴァーンについて正しく認識すること以外に、自分を正しく認識することができないからです。
自分を受け入れられない、という人間の根本的な問題は、自分を正しく認識できていないことにあります。
今日も良い一日を。。