私が教えた文章についての質問なら私が答えられますが、私が教えたわけでもない文章についての質問については、それを教えた先生に訊くべきなのですが、訊けるような先生から学んでいないから、私のところに来るんだろうな、となりますし、そういう人に何をどう説明したらいいのだろうか、となります。。
サンスクリット語の聖典は、その意味を教える伝統で学んだ先生から学ぶべきですから、独り合点にしかならない独学では本来の意味が正しく伝わりませんし、独学した人が教えるなんてもっての外なのですが、実際は横行していますね。。
きちんと伝統で学んだ先生なら、発音も文法もきちんと知っていて教えられるはずですが、現在ヨーガスートラなどの原典を教えている先生でशिक्षाやサンスクリット語文法をきちんと学んだ人がどれくらいいるのだろう?と思います。。
2千年前のパタンジャリも、マハーバーシヤの中で同じようなことを述べておられました。
पुराकल्पे
एतद् आसीत् संस्कारोत्तरकालं ब्राह्मणा व्याकरणं स्म अधीयते ।
昔はこのようでありました。教育を受けた後で、学問をする人々は、文法を勉強していました。
तेभ्यः 4/3
तत्र 0 स्थान-करण-अनुप्रदान-ज्ञेभ्यः 4/3 वैदिकाः 1/3 शब्दाः 1/3 उपदिश्यन्ते III/3 ।
そして、そのような、発音の位置、器官、使い方(シックシャー)について知っている人々に対して、ヴェーダの言葉は教えられました。
तद् अद्यत्वे
न तथा । वेदम् अधीत्य त्वरिता वक्तारो भवन्ति ।
それは、今日では、そのようではありません。ヴェーダを勉強したらすぐさま先生になります。
पुराकल्पे
एतद् आसीत् संस्कारोत्तरकालं ब्राह्मणा व्याकरणं स्म अधीयते ।
In the
ancient time, this is how it was: Brāhmaṇas used to study grammar after
getting proper saṃskāra.
तेभ्यस्तत्र
स्थानकरणानुप्रदानज्ञेभ्यो वैदिकाः शब्दा् उपदिश्यन्ते ।
Then for such
Brāhmaṇas who knew स्थान (point of
articulation), करण (instrument of articulation), अनुप्रदान (बाह्यप्रयत्न), Vedic words
were taught.
तद् अद्यत्वे
न तथा । वेदम् अधीत्य त्वरिता वक्तारो भवन्ति ।
In the
situation today, it is not like that. After studying the Veda, they quickly
become teachers.