プージヤスワミジの生誕地であるマンジャクディで、
同じ先生を持つ先輩スワミジのシヴァプラカーシャーナンダ・スワミジによる、
2回目のBrahmasutraのBhashyaキャンプが無事終わりました。
プージヤスワミジからヴェーダーンタのクラリティーをきちんと受け継いだ、
生まれも育ちもヴェーダ文化の教養の高い博識あるスワミジから、
ヴィヤーサのスートラ、ヴィッディヤーランニャのニャーヤマーラー、
そしてシャンカラーチャーリヤのバーシヤを、一言一句解説して教えてもらえ、
伝統の先生方と同じ言葉で同じ意味を味わえるのは、本当に有難いことです。。
ヴェーダーンタのヴィジョンをクリアーにするために、
このような勉強が必ずしも全ての人にとって必要ではありません。
ヴェーダーンタの文献を正しく教えられる先生に出会い、
その先生について、きちんと学べること。
自分が貢献者となることを選びながら、クリアに理解できる心を育てること。
これさえあればもう何も要りません。
キャンプでご一緒したのは、バンガロールに行くたびにお世話になっている、
熱心にヴェーダーンタを勉強されているブランミンの奥様方達。
先日の日本のキャンプで、インド料理のクラスをしてもらうよりも、
食べ物に関するインドの宗教的清潔さ(例えばこんなこと)を学んで欲しい、
と切に生徒さん達にお願いした際、「どこに行けば学べますか?」と訊かれました。
こういうことは学校で教えてもらったり、文献を読んで学ぶものではなく、
先祖代々宗教的清潔さについて教えてもらっている人々と一緒にいて学ぶものです。
しかし、インドに長年住んでいても、インドの文献を長年勉強している人でも、
実際は、こういった宗教的な習慣について無知な人が殆どなようです。
何が言いたいかというと、ヴェーダの知識の伝承というものは、
ヴェーダの知識の伝承を担当している人々から直接学ぼうとしない限り、
どれだけ文献を覚えても、たとえどれだけ彼らと一緒に時間を過ごしていたとしても、
学べるものでは無いのだな、と実感したということです。
文献はサットヴァな文化の中で教え継がれている、ということです。
インドに何年も居て、いろんな人に会って、いろんなことを学ぶ人は多いですが、
裏路地の食堂でノンベジ食べてお酒飲んでボリウッドに詳しくなる人もいれば、
ブランミンの先生の下で同じような生活様式をしながらヴェーダの詠唱を学ぶ人もいます。
「インドに来たならスラム街を見ないと本当のインドを知ったことにならない」
という人がいますが、スラム街なんて世界中どこにでもあるのだから、
私なら、せっかくインドに来たのなら、
インドならではの、ヴェーダのヴィジョンにもとづく文化と、
その文化を受け継ぐサットヴァな人々(それをブランミンと言う)
に触れて欲しいと思います。
同じ「聖典」を何年も勉強しているといっても、
お酒を飲んでノンベジ食べて呪術的なことに専念していく人もいれば、
(まさに、ギーターの教える、タマス・ラジャスな祈祷ですね。。)
カースト差別を教えいる!という解釈ができる文章を漁り続けている人達もいるし、
(ヒンドゥー嫌いの政治家から資金を得ている人達。本当に時間の無駄)
タンクトップを来てヨガを一日中してセルフィーに映った自分を見ている人もいるし、
ヴェーダーンタを勉強して、聖典が教える自分の本質を見ている人もいます。
サットヴァ、ラジャス、タマス。
サットヴァの質が高い人のあり方を、ブラーンマナと言います。
同じ世界を見て、何が見えるのか、
インドを見て、文化に触れて、聖典に触れて、何が見えるのか。
どれだけインドに居ても、どれだけ聖典を勉強しても、
自分がサットヴァの質を高めていこうとしない限り、見えるものは限られます。
同じ先生を持つ先輩スワミジのシヴァプラカーシャーナンダ・スワミジによる、
2回目のBrahmasutraのBhashyaキャンプが無事終わりました。
プージヤスワミジからヴェーダーンタのクラリティーをきちんと受け継いだ、
生まれも育ちもヴェーダ文化の教養の高い博識あるスワミジから、
ヴィヤーサのスートラ、ヴィッディヤーランニャのニャーヤマーラー、
そしてシャンカラーチャーリヤのバーシヤを、一言一句解説して教えてもらえ、
伝統の先生方と同じ言葉で同じ意味を味わえるのは、本当に有難いことです。。
ヴェーダーンタのヴィジョンをクリアーにするために、
このような勉強が必ずしも全ての人にとって必要ではありません。
ヴェーダーンタの文献を正しく教えられる先生に出会い、
その先生について、きちんと学べること。
自分が貢献者となることを選びながら、クリアに理解できる心を育てること。
これさえあればもう何も要りません。
キャンプでご一緒したのは、バンガロールに行くたびにお世話になっている、
熱心にヴェーダーンタを勉強されているブランミンの奥様方達。
先日の日本のキャンプで、インド料理のクラスをしてもらうよりも、
食べ物に関するインドの宗教的清潔さ(例えばこんなこと)を学んで欲しい、
と切に生徒さん達にお願いした際、「どこに行けば学べますか?」と訊かれました。
こういうことは学校で教えてもらったり、文献を読んで学ぶものではなく、
先祖代々宗教的清潔さについて教えてもらっている人々と一緒にいて学ぶものです。
しかし、インドに長年住んでいても、インドの文献を長年勉強している人でも、
実際は、こういった宗教的な習慣について無知な人が殆どなようです。
何が言いたいかというと、ヴェーダの知識の伝承というものは、
ヴェーダの知識の伝承を担当している人々から直接学ぼうとしない限り、
どれだけ文献を覚えても、たとえどれだけ彼らと一緒に時間を過ごしていたとしても、
学べるものでは無いのだな、と実感したということです。
文献はサットヴァな文化の中で教え継がれている、ということです。
インドに何年も居て、いろんな人に会って、いろんなことを学ぶ人は多いですが、
裏路地の食堂でノンベジ食べてお酒飲んでボリウッドに詳しくなる人もいれば、
ブランミンの先生の下で同じような生活様式をしながらヴェーダの詠唱を学ぶ人もいます。
「インドに来たならスラム街を見ないと本当のインドを知ったことにならない」
という人がいますが、スラム街なんて世界中どこにでもあるのだから、
私なら、せっかくインドに来たのなら、
インドならではの、ヴェーダのヴィジョンにもとづく文化と、
その文化を受け継ぐサットヴァな人々(それをブランミンと言う)
に触れて欲しいと思います。
同じ「聖典」を何年も勉強しているといっても、
お酒を飲んでノンベジ食べて呪術的なことに専念していく人もいれば、
(まさに、ギーターの教える、タマス・ラジャスな祈祷ですね。。)
カースト差別を教えいる!という解釈ができる文章を漁り続けている人達もいるし、
(ヒンドゥー嫌いの政治家から資金を得ている人達。本当に時間の無駄)
タンクトップを来てヨガを一日中してセルフィーに映った自分を見ている人もいるし、
ヴェーダーンタを勉強して、聖典が教える自分の本質を見ている人もいます。
サットヴァ、ラジャス、タマス。
サットヴァの質が高い人のあり方を、ブラーンマナと言います。
同じ世界を見て、何が見えるのか、
インドを見て、文化に触れて、聖典に触れて、何が見えるのか。
どれだけインドに居ても、どれだけ聖典を勉強しても、
自分がサットヴァの質を高めていこうとしない限り、見えるものは限られます。