真実はひとつ、みたいなことを言ったときに、
それはもう脚気の検査のように、
「人それぞれ、いろんな意見がある!多様性!ピース!」
という反応が返ってくると、
SNSで出回っているキャッチフレーズで洗脳された
まさにアンドロイドのような感じがして、正直、薄気味悪くも感じます。
この世界が世界と呼ばれる大前提として多様性があるので、
「多様性!」なんてわざわざ言う必要はないはずなのだけど、
「みんな同じ・出る杭は打たれる」という国家宗教に洗脳された人々にとっては、
「多様性」という言葉は新鮮に聞こえるのでしょうかね。。
多様性を支えている真実がひとつだと言っている訳で、
そのひとつの真実がひとつであるゆえに私である訳で、
「真実がひとつなんてあり得ない!」と言っている人の本質は私であり、
その人の存在は、私というひとつの真実の存在に他ならない訳だから、
誰がどのように反応しようと、それは、
自分という満ち足りた水に立つさざ波でしかないのだけど、
「真実はひとつなんかじゃない!」と言っている人にとっての真実は、
すなわちひとつじゃないのだから、ドヴァイタであり、
その人が見たその人自身の存在は、ちっぽけなさざ波でしかなく、
他のさざ波達を見て「多様性!」と言いながら、押し合い圧し合いして、
生まれては死んでいき、また生まれを繰り返して、
自分が全ての生死を支えている、満ち満ちている大海の本質である、
ひとつの水であるという真実は、
なかなか見えないものみたいです。
波がいくつあろうと、それらの真実である水はひとつ。
それが私です。