皆と一緒の「普通」になれなくて悩むより、
その普通たるものを疑ってかかり、
倫理的・論理的に問い考えて、
いわゆる「普通」の中に、矛盾を見出せるようになって欲しい。
普通であろうがなかろうが、
人間が人間たる所以である、
普遍の倫理(思いやり)と論理(ロジック)を持って、
いわゆる「普通」という概念に疑いを持って問いかけることにより、
それがいかに変な概念であるのか、
いかに倫理的に破綻しているのか、
いかに論理的に破綻しているのか、
見破れるようになって欲しいものです。
普通(normal) の基準(norm)は、
自分の中にある、自分の中核を成す、
自分の個性をも超越した、普遍的な価値基準、
つまり、倫理(思いやり)と論理(ロジック)だと気付いたら、
その基準を他人に決めてもらおうとしていた、
今までの自分の愚かさにも気付くでしょう。
いわゆる「普通」を構成している大多数の人が、
思いやりの心が濁り、ロジックが濁っているからといって、
それが正しくなることはありません。
自分の出来る限りの客観的な状況判断により、
自分が思いやりを持って行動しているのなら、
この世の誰にも認めてもらえなくても、
自分が何をしているのかは、自分が一番よく知っているのだから、
どうでも良いのです。
しかし、普通の人は、
普通になろうと必死に頑張ったり、
普通になれないことをやたら気にして、
大多数から「君は普通だ」と言われて安心したり落胆したり、
同様に、「普通じゃない」と言われて安心したり落胆したり、
そんなことに忙しくて、
自分を苦しめているその「普通」を、疑い問うことをしないんですね。。
「私」や「他人」や「世界」をジャッジするための基準として、
ジャッジメンタルな使われ方をされている、
「普通」という言葉は、
心理や倫理の秩序(ダルマ)において、
そして、その現実性において、
「普遍」を考える入り口にもなる、
と思って書きました。