ヴェーダーンタが教える現実は、
信仰の対象ではありません。
正しく理解するためのものです。
現実についてのことですから、
言われたままを呑み込んで、信じていればいい、
なんて訳にはいきません。
ここに在る現実の、現実性に問いかけ、
正しく知ろうとしているのです。理解しようとしているのです。
経験とは限界から成り立っているという至極当然な事実に気づかない、
この世の大多数(宗教家を含む)は、経験・実践が最終的な現実だと勘違いして、
理解や思考や言葉を見下していますが、
理解や思考や言葉をバカにするというのは、
その人が、バカな理解や思考や言葉しか知らないという証拠です。
呪われた思考しか持っていない人が、思考ストップを唱えるのです。
思考が自分を苦しめているのは、思考が間違っているからです。
思考を正せば、問題など無いのです。
問題解決は思考を正すことなのです。
理解というものは、自分の思考に起きるものです。
「人間の」自由とは、精神の自由、思考の自由にあります。
それ以外の、凡人の言う、いわゆる「自由」なんてものは、
機械的・生理的な必要性の奴隷になっているだけです。
あなたは、今回せっかく人間として生まれてきたのですから、
精神的に自由になって、
人間として追及すべきことを明らかにするために、
いくらでも突き詰めて考えて良いのです。
いくらでも突き詰めて考えるべきなのです。
あなたは精神的に自由であり得る存在なのに、
精神的に自由でなくさせているのは誰ですか?
思考の自由を制限しているのは、何ですか?
あなたは、あなた自身の精神を自由にできていますか?
自由と言っても、
好き勝手に「生理的な」自由を謳歌しているのは、
人間的な、つまり「精神的な」自由ではありません。
ここを勘違いしている人が、現在の地球の人口の大多数ですけどね。
ちなみに、混乱というものも、自分の思考にあるものです。
自分という存在が制限された個人であるという認識が、
ヴェーダーンタが教えるように、混乱によるものだったとしたら、
何を何と混乱していたのか、根気よく紐解いて行くしかありません。
それを、論理的思考と呼びます。それは自分の頭でするものです。
「あなたは自由です」と言われて気分良くなってたらそれでいい、
というレベルで満足させるようなインチキを自分にしていては、
何の解決にもなっていません。
人間の生を無駄にしているに等しいでしょう。
思考の混乱の解決は、思考にしかあり得ません。
散らかった部屋を片付けるには、その部屋を片付けるしかないのです。
ヴェーダーンタの先生というものは、質問を常に受け付けます。
ヴェーダーンタの教え自体、質問から始まるのですから。
ウパニシャッドの教えは、先生と生徒のダイアローグ(対話)形式です。
ヴェーダーンタが教える現実について、
腑に落ちなければ、疑いがあるのなら、
質問という形にして、先生に尋ねれば良いのです。
質問という形にするまでのプロセスに、時間がかかるかも知れません。
返ってきた解答の理解に、少し時間がかかるかも知れません。
しかし、時間そのものが解決しているのではなく、
自分の思考が適切であるかどうかの問題なのです。
信じないといけない、
理屈に合ってないのに、
理解できないのに、
思考ストップして、言われた通りのことを鵜呑みにして、
首を縦に振って、信じ込まないといけない、
そんな精神は、自由とは言えません。
あなたは自由なのです。
恐れずに、考え抜く、ということができるとき、
あなたの精神は自由なのです。
あなたの精神の自由を制約しているものー
教育によって植え付けられた既成概念、
皆と同じでなければならないという同調圧力、
こんな根本的なことを疑ったら、頭がおかしいと思われる?
先生から「信じてないのか?」って怒られる?
という自分の想像からの強迫観念、
-これらから、自分の精神を自由にできるのは、
自分自身しかありません。
自分で、自分の頭で、考え始めたとき、
人間は、人間として自由になります。
つまり、精神的に自由になるのです。
自分で考える、ということを始めだしたら、
周りの人間を見ていてい気づくことがあります。
みんな、自分で考えているつもりでも、
どこかで聞いたこと、読んだことを、
そのまんま、リピートしているだけで、一生を過ごしているのだ、
ということに気づかされます。
自分の論理的思考というプロセスを経ずに、
聞いたこと・読んだことをそのまま、
機会人形のように、賢そうに、偉そうに、
尤もらしいことを、リピートしている、恐ろしい現実に気づきます。
機械人形は、自由ではありません。
精神の自由・思考の自由を発見していない人間は、
機械人形と同様、楽しい・気持ちいいを追いかけるだけに人生を費やします。
ヴェーダの教えは、人間の特権である思考能力・理性を、
最大限に、最大限に自由に、使うことを推奨している、
ということを知っている学者は少ないでしょう。
人間の特権である思考能力・理性を、
根本的な問題の発見と、
根本的な解決の方向へ、
適切に使うことを推奨しているのです。
理性を最大限自由に使うのですから、
そのような理性を持つ人の考えは、客観的・論理的です。
変化する事象の認識には主観は避けられない、
ということを知っているのは、客観的な思考です。
全てのものが、感覚器官を通して知り得るものではないので、
感覚器官を通して得たデータを元にした論理で、全てを認識できない、
というのは論理的です。
ヴェーダーンタでは、論理的に考えて生まれた質問なら、
何でも質問し放題です。
信じるしかない神様を崇めている宗教なら、
「信じていないのか!?帰依心が足りない!首を切っておしまい!」
と言われるような質問でも、どんどんしても良いのです。
論理に思考を挑戦させるべきです。
質問を受けたとき、その先生が、
現実をクリアーに見ている人で、
先生としての資格のある人、つまり、思いやりのある人なら、
全ての質問に、適切な答え方で答えてくれるはずです。
質問はし放題です。
ヴェーダーンタの教える現実に関する適切な質問なら、
いくらでもすればいいのです。
「それはいつか経験できる」
経験が絶対だと混乱しているティーチャーの典型的な答えですね。
「あと10年くらいすればそれが分かる日が来るよ」
「君には資格が無い」
「君は質問し過ぎるのは執着からだ」
このような言葉で、思考を否定している、
いわゆるスピリチュアル・ティーチャーが多すぎる世の中です。。
それでもめげずに、真実を探して、問いかけを止めないでください。