答えから先に言うと、
ヴェーダーンタの教えは、時代や人種・階級・国籍・性別等では変わらない、
本質を教えているものなので、それらによって制限されるものではありません。
その人が、ヴェーダーンタの教えを知る必要性に気づく分別を持ち合わせ、
教えを聴いたときに理解出来る準備(アディカーリットヴァ)、つまり、
人間としての精神的な成長を遂げた心を持っていれば、
その人にとって、ヴェーダーンタを聴き、理解することを妨げるものはありません。
しかし、ヴェーダーンタは、ヴェーダの一部です。
ヴェーダのマントラを正式に学ぶためには、यज्ञोपवीत(ヤッグニョーパヴィータ、斜めがけの糸)を付けていなければいけません。यज्ञोपवीतを付けているということは、ウパナヤナという儀式を受けて、毎日ガーヤットリーをチャンティングして、サンディヤー・ヴァンダナをしているということです。さらに毎月のようにある特別な日に特別な祈りの儀式をして、つねに世界中の人々の幸せを願っているのです。(私達は彼らに感謝しなければなりません。)もちろん、肉食や飲酒など宗教的に不清潔とされる生活習慣などとは相容れません。
ウパナヤナの儀式をを受けられるのは、ブランミン、クシャットリヤ、ヴァイッシャの男子(昔は女子もOKだったそうです。)だけなので、ヴェーダ、そしてヴェーダーンタを原典から正式に学ぶことが出来る人は、おのずと限られてきますね。
しかし、ヴェーダーンタの教えは、ヴェーダだけではなく、同じ教えがギーターなどのスムルティの文献や、タットヴァ・ボーダなどのプラカラナ・グランタという、ヴェーダのような厳しい制限が必要の無い形で教えられています。
ギーター自身でも、女性もシュードラでも、ヴェーダーンタの教えを得られると言われています。(9.32)
私の恩師、ダヤーナンダ・サラッスヴァティは、यज्ञोपवीतをつけていない、つまり、女性や外国人にも教えているということで、今の時代でもあれこれいうブランミン達は居ることは居ます。
しかし、その教えが純粋な伝統に従っていることから、現存する伝統の最高権威であるシュリンゲーリのシャンカラーチャーリヤから、その伝統の教えを表彰された、唯一のヴェーダーンタのアーチャーリヤ(先生)でもあります。
ヴェーダーンタの教えは、人種や階級や時代などに左右されない、本質を教えていますから、聴きたい・知りたい・知らなければならない、と気づいた人なら、特権やお金が無くても、国籍や性別に関わりなく、誰でも聴けるようになっています。
そして、その人が精神的に成長していれば、つまりヴェーダーンタを理解するためのマインドが準備されているのなら、先述のギーターの言葉にもあるように、きちんと問題なく理解も出来ます。
しかし、聴く人が精神的に成長していなければ、ヴェーダーンタの教えはとても危険です。
それも、ギーター自身が教えています。
(न बुद्धिभेदं जनयेद् अज्ञानां कर्मसङ्गिनाम् । カルマに固執し、分別の無い人々の考えを混乱させてはなりません。3.26)
(इदं ते नातपस्काय नाभक्ताय कदाचन। न चाशुश्रूषवे वाच्यं न च मां योऽभ्यसूयति ॥
あなた(アルジュナ)へのこの教えは、タパスをしていない人、先生・デーヴァを持たない人、セーヴァーをしない人、私(クリシュナ)を単なる人間だと思っている人には教えてはなりません。18.67)
そして、カリユガだからか、ヴェーダーンタを伝統に沿った正しい先生から聴こうとしたり、サンスクリットを学ぶことの出来るマインドを持った人は、非常に少ないのが現実です。
お金も特権も要らず、誰でも聴けるようになっているのですが、それさえも知られていません。そんな情報をキャッチできるアンテナを持っている人が、ごく稀だからです。
今回の人生で、ヴェーダーンタの正しい教えに出会い、それを座って聴いていられるマインドを持っている人は、前世から今世までずっと、その為に必要なヴェーダの儀式も、ガーヤットリー・ジャパも、サンディヤー・ヴァンダナもして来た人です。
もし、今世でしていないなら、前世までにして来た、と捉えて良いでしょう。
ヴェーダーンタの教えを1時間座り続けて聴いていられる、というのが、何よりの証拠です。
そして、何がタパスなのか、デーヴァなのか、セーヴァーなのか、それらは教えてもらわなければ分かりません。それらが何なのか、特にダルマとは何なのかについては、直接ヴェーダーンタに繋がらなくても、聴く人の幸福を向上することは出来るので、より多くの人に知る機会を持ってもらうことは、伝統的な視点から見ても、推奨されるべきことです。