「シクシャー・グル」という言葉は、リシケーシュのあるヨガアシュラムで聞いたきり、
AVG(私が勉強したアシュラムの総称)では、一度も聞いたことがありませんが、
ヨガ哲学の先生のおかげでヴェーダーンタに来れた人には、
それが示唆する意味を是非知ってもらいたい言葉です。
私が何も知らずに始めてリシケーシュに来てすぐに、ご縁があって、ヴェード・ニケタン(パラマルスの向こう、ビートルズ・アシュラムの手前)にて、ダルマーナンダ・スワミジというサンニャーシンの方が、主に外国人向けにを毎日開催しておられる、ヨガ哲学、というか、インドのスピリチュアル入門、のようなクラスに参加していました。
先生のダルマーナンダ・スワミジはとても気さくな方で、スピリチュアルに憧れてはるばるインドにやって来た外国人たちが、彼らを待ち受ける自称グル達に騙されないために、リシケーシュのスピリチュアル界隈の裏事情?や、ご自身の抱えていた問題などもぶっちゃけにどんどん話されていて、他の外国人参加者の観察も含めて、そのクラスではいろいろ勉強になりました。
ヴェーダーンタというものがあることや、バガヴァッド・ギーターという聖典があることも、初めてそこのクラスで知りました。聖典には最大の敬意を持って向かうこと、博士号を取るよりも大変な勉強とコミットメントが必要とされることなども、先生はご自身の態度をもって教えてくださっていました。
その先生は、クラスの中でバガヴァッド・ギーターやウパニシャッドから引用して、ヴェーダーンタとは何かといった紹介はされていましたが、別個に正式なヴェーダーンタのクラスはされていませんでした。私もまさか自分がそこまで勉強するとは思っていませんでした。
クラスの中で先生が、「グルにはいくつか種類があって、まず、シクシャー・グルは、精神的なことについての一般的なことを教える先生。そして、サッド・グルは、真実を教える先生だ」のようなことを仰っていたように記憶しています。当時の私は別にグル探しをしていた訳でも、真実探しをしている訳でも無かったので、「ふーん」位にしか思っていませんでした。
ヴェード・ニケタンのクラスには、クラスで扱われるトピックが網羅されている分厚い教科書なるものがありました。そこには、ヨーガのポーズやプラーナーヤーマ、瞑想についての方法や効果だけでなく、インド哲学から見たマインドの働き方といったトピックや、そしてもちろん、インドの宗教行事について、プラーナなどからの神話について、そしてヴェーダやバガヴァッド・ギーターなどの聖典についてなどがあったように記憶しています。
数週間して、その教科書のトピックの殆どがカヴァーされた頃、クラスに行くのをそろそろを辞めようかと思っていると誰かに話したら、それがダルマーナンダ・スワミジ先生のお耳に入ったらしく、最後の日にサプライズで「卒業式」をしてくださいました。(本当はその次の週も来ようと思ってたのだけど、そんな卒業式をされてしまって、行きづらくなってしまった、というオチがあります。)
いつも後ろの方に座っていた唯一のアジア人(つまり大人しい)聴講生の私に、先生が生徒全員と一緒に沢山のお花とマーラーで祝福のセレモニーをしてくれたのは、本当に驚きでした。これからの新しい門出を祝って、先生は皆の前で、私にこう仰ってくれました。
「君にとって私は、サッド・グルではない。私は君にとってのシクシャー・グルだった。でも、君はすぐにサッド・グルに出会えるよ。私はそのように祈っている。」
私も、そして周りの皆も、「え?」と戸惑ってしまうようなお言葉でしたが、それがその先生の、他のヨガ哲学の先生からは見られない、稀な誠実さだったのだと今でも思います。
生徒の幸せを祈ってくれて、決して生徒の不案内さに付け込んで利用しない、彼の正直さが、この祈りに込められていたのだと、今でも感謝しています。
普通のヨガ哲学の先生は、バガヴァッド・ギーターやウパニシャッドを紹介はできても、(まず自分がきちんと勉強していないし、だから教えることもできないので、)そこから先に、生徒がヴェーダーンタの伝統的な学びへと進めるように、はっきりと「卒業」という形で背中を押すことができないのだな、と思うケースは、しばしば見かけます。
だから結局、生徒は自分でギーターやウパニシャッドの訳本を買って、自分で読んで、自分なりの解釈をするしかなくなります。(そして自分独自の解釈をブログに書いたり、それを自分の座学のクラスで教えたりします。)
たとえ伝統的な教えに出会えても、シクシャー・グルから、真実を教えてくれる先生へと、心理的に「卒業」できないまま、次に進めない人は実際とても多いです。
ダルマーナンダ・スワミジが、「卒業式」というセレモニーで、吉兆を運ぶアイテムと言葉と作法で、私の幸せを願うお気持ちを「儀式」という形で表現してくださったのは、とても意味があると思います。そうやって形にすることで「ここまで」「これから」というけじめがつき、生徒が心理的なわだかまりや背信感を背負うことなく、ヴェーダーンタを勉強できるように送り出してくれたのだと思います。そんな潔い先生は、なかなかいないと思います。
その後まもなく、ひょんなきっかけから、このスワミジの祝福のお言葉通り、私はダヤーナンダ・アシュラムの門をくぐり、ヴェーダーンタの伝統的な教えに出会うことになります。