マントラやシュローカを引用した場合、
人類の脳みその機能が著しく低下している、カリユガの現代だからこそ、
出典(○○ウパニシャッドの○章○節、とか)を記載する習慣がありますが、
もともとは、「みんな全部知ってるよね?全部頭に入ってるよね?」
が大前提だったので、引用は出典が言及されることなく、
アーチャーリヤ達によって縦横無尽にされていました。
それは今でも伝統的な口頭の教えでは続けられていますが。
私自身も今回は現代に生まれて来たので、
出典のお世話になっていて、引用元に行って調べたり、
出典を書いたりする癖は知らない間に付いていて、番号も一緒に覚えてしまうタイプです。
ウパニシャッドやギーターを引用した場合は、そこに行ってちゃんと勉強して欲しいので番号を書きますが、ヴィシュヌ・サハッスラ・ナーマとか、アーディッディヤ・リダヤとかいった、それらが既に独立したお祈りになっている場合は、学術書でもない限り、チャンティングの本までに、マハーバーラタやラーマーヤナのどこどこの部分、と「私知ってます!調べました!」と手柄のように書くのは、読む人の知りたい情報では無いわな、という感じで、使い分けています。
本当に出典を知りたいのなら、インターネットの時代、すぐに調べられるのだから、
引用されている言葉がはっきりしている場合、
出典が無くて困るのは、本当にリテラシーの低い人だけ、ということになりますね。理屈で言うと。
前のコースでは、ヴェーダーンタを教えるアーチャーリヤに、
「講義の中で、引用するなら、必ず出典の番号まで言って!そうじゃなきゃ引用しないで!」
と押し付けていた西洋人女性がいました。。。そういう傲慢な人に限って、
シュローカもマントラも、全くひとつも覚えられないんですよね。。。
私はアーチャーリヤが何か引用するたびにメモって、後で、
アーチャーリヤもしくは頭の良さそうなブランマチャーリンの時間がありそうな時を狙って、
今日一日分の引用をまとめて訊いていました。
聞き取れない言葉も多いので、Yahoo!知恵袋の「タララ~ンって曲の題名教えて下さい」
のノリになることが多かったですが、それはそれですごく楽しかったです。
正しい言葉を教えてもらって、どの文献のだいたいどの部分かを教えてもらって、
後は自分で調べますね~としていました。
根気よく付き合ってくれた、アーチャーリヤとブランマチャーリン達に感謝が尽きません。。。
シャンカラのバーシヤでも、引用は縦横無尽にバシバシされていました。
後世になって出典を探して、書き入れているので、
似たようなマントラやシュローカがある場合、出典が違っていたりします。
また、シャンカラの時代から現代までに失われた文献も多く、
出典が分からないものもたくさんあります。
文法書も然りです。
パーニニ文法を形成している3つの原典:
1.パーニニによるスートラ
2.ヴァラルチによるヴァールティカ
3.パタンジャリによるマハーバーシヤ
も、実は、ヴァールティカは全形では残っておらず、
マハーバーシヤの中での引用から知るしかないということです。
また、原典というステータスは無いけれども、
ポイントをまとめて覚えやすくしているシュローカはいろいろあります。
6つのタイプのスートラ、इट्の付かない母音で終わるダートゥ、
等をまとめたシュローカは、ありとあらゆるものについてあります。
原典には必ず、伝統の教えがセットになって付いてきます。
だから原典だけを読んでも、正しい理解に繋がるとは限りません。
原典を伝統の教えに沿って理解できることをまとめたシュローカである、
ということを理解していない人には、それが原典となってしまう、
というあべこべなことが起きてしまいます。
私の書いている教科書でも、覚えやすいシュローカとかは、
参考までにメモとして集めているのですが、
私の教科書を使ってもらっている、ある国の大学院の先生から、
「このシュローカの出典は?」とよく訊かれます。
原典ならトラックできますが、覚えとくといいよ系のシュローカは、
こんなん書いた暇な奴誰や?という、違う意味で、こっちが知りたいので、
「そういうの調べるために大学があるんでしょ?分かったら教えて」という姿勢にしています。
そういう、覚えとくと良いよ系のシュローカについては、
私の先生の口頭からの書き取り、もしくは、
これまた出典の記載のない参考書からのコピー、しかも、
いろんなヴァージョンあるし、自分が使えると思ったものを自分の分別で使えば?
というのが私の姿勢であり、インドものはそういう感じです。
もし出典を見つけたら、「俺の手柄!私の手柄!」となり、
出典が見つからないなら役に立つものでも捨ててしまう、
というのがアカデミアの姿勢なのかな?
そしたら、シャンカラの引用とか、パタンジャリの引用は?
と疑ってしまう。。。
そういうわけで、最近、
「引用にはちゃんと全部出典つけてよね!」という「ちゃんと」と、
「そんな本質的でないデータ収集に忙殺されるんじゃなくて、
ちゃんと本質を見抜けるようになってよ!」と私が言いたい「ちゃんと」の意味が、
全然ちがうな~、と実感させられています。
データの収集=学問
となっているなぁ、と感じます。
全ては本質を見極める為にあるのに。。
伝統を知る先生に付き、生徒にも器が無ければ、本質を知ることは無理ですが。
本質が見極められていないから、
データを収集して安心しようとするのは、よく見られる現象ですけどね。。。
膨大なデータ収集している機関のサイトを教えてもらいましたが、
(こちらのアシュラムで作成されたデータも収録されています)
どれだけデータを集めても、そこに命を吹き込むには、
一回ちゃんと先生について学ばなければ、意味ない、
という良い例が、そのサイトを使って独自で研究している人です。。
膨大なPDF等のデータや、講義のMP3の録音を、
1TBのハードディスクに詰め込んで、満足しているブランマチャーリンは沢山いますが、
どれだけデータを集めても、それが、
このド頭の中で処理されて、
このド頭の中で何かが起きなければ、
意味が無いのですよ!
と、私はいつも言っています。
最近、すごいスピードで、あらゆる文献がデジタル化されていて、
前のコースではみんな何冊も文法書を持ち込んでいたのに、
今回のコースでは皆、タブレットやiPhoneで検索できるようになした。
これに関しては、すごく恩恵を受けています。
誤字脱字がものすごく多いですが、それでも有難いです。
人類の脳みその機能が著しく低下している、カリユガの現代だからこそ、
出典(○○ウパニシャッドの○章○節、とか)を記載する習慣がありますが、
もともとは、「みんな全部知ってるよね?全部頭に入ってるよね?」
が大前提だったので、引用は出典が言及されることなく、
アーチャーリヤ達によって縦横無尽にされていました。
それは今でも伝統的な口頭の教えでは続けられていますが。
私自身も今回は現代に生まれて来たので、
出典のお世話になっていて、引用元に行って調べたり、
出典を書いたりする癖は知らない間に付いていて、番号も一緒に覚えてしまうタイプです。
ウパニシャッドやギーターを引用した場合は、そこに行ってちゃんと勉強して欲しいので番号を書きますが、ヴィシュヌ・サハッスラ・ナーマとか、アーディッディヤ・リダヤとかいった、それらが既に独立したお祈りになっている場合は、学術書でもない限り、チャンティングの本までに、マハーバーラタやラーマーヤナのどこどこの部分、と「私知ってます!調べました!」と手柄のように書くのは、読む人の知りたい情報では無いわな、という感じで、使い分けています。
本当に出典を知りたいのなら、インターネットの時代、すぐに調べられるのだから、
引用されている言葉がはっきりしている場合、
出典が無くて困るのは、本当にリテラシーの低い人だけ、ということになりますね。理屈で言うと。
前のコースでは、ヴェーダーンタを教えるアーチャーリヤに、
「講義の中で、引用するなら、必ず出典の番号まで言って!そうじゃなきゃ引用しないで!」
と押し付けていた西洋人女性がいました。。。そういう傲慢な人に限って、
シュローカもマントラも、全くひとつも覚えられないんですよね。。。
私はアーチャーリヤが何か引用するたびにメモって、後で、
アーチャーリヤもしくは頭の良さそうなブランマチャーリンの時間がありそうな時を狙って、
今日一日分の引用をまとめて訊いていました。
聞き取れない言葉も多いので、Yahoo!知恵袋の「タララ~ンって曲の題名教えて下さい」
のノリになることが多かったですが、それはそれですごく楽しかったです。
正しい言葉を教えてもらって、どの文献のだいたいどの部分かを教えてもらって、
後は自分で調べますね~としていました。
根気よく付き合ってくれた、アーチャーリヤとブランマチャーリン達に感謝が尽きません。。。
シャンカラのバーシヤでも、引用は縦横無尽にバシバシされていました。
後世になって出典を探して、書き入れているので、
似たようなマントラやシュローカがある場合、出典が違っていたりします。
また、シャンカラの時代から現代までに失われた文献も多く、
出典が分からないものもたくさんあります。
文法書も然りです。
パーニニ文法を形成している3つの原典:
1.パーニニによるスートラ
2.ヴァラルチによるヴァールティカ
3.パタンジャリによるマハーバーシヤ
も、実は、ヴァールティカは全形では残っておらず、
マハーバーシヤの中での引用から知るしかないということです。
また、原典というステータスは無いけれども、
ポイントをまとめて覚えやすくしているシュローカはいろいろあります。
6つのタイプのスートラ、इट्の付かない母音で終わるダートゥ、
等をまとめたシュローカは、ありとあらゆるものについてあります。
原典には必ず、伝統の教えがセットになって付いてきます。
だから原典だけを読んでも、正しい理解に繋がるとは限りません。
原典を伝統の教えに沿って理解できることをまとめたシュローカである、
ということを理解していない人には、それが原典となってしまう、
というあべこべなことが起きてしまいます。
私の書いている教科書でも、覚えやすいシュローカとかは、
参考までにメモとして集めているのですが、
私の教科書を使ってもらっている、ある国の大学院の先生から、
「このシュローカの出典は?」とよく訊かれます。
原典ならトラックできますが、覚えとくといいよ系のシュローカは、
こんなん書いた暇な奴誰や?という、違う意味で、こっちが知りたいので、
「そういうの調べるために大学があるんでしょ?分かったら教えて」という姿勢にしています。
そういう、覚えとくと良いよ系のシュローカについては、
私の先生の口頭からの書き取り、もしくは、
これまた出典の記載のない参考書からのコピー、しかも、
いろんなヴァージョンあるし、自分が使えると思ったものを自分の分別で使えば?
というのが私の姿勢であり、インドものはそういう感じです。
もし出典を見つけたら、「俺の手柄!私の手柄!」となり、
出典が見つからないなら役に立つものでも捨ててしまう、
というのがアカデミアの姿勢なのかな?
そしたら、シャンカラの引用とか、パタンジャリの引用は?
と疑ってしまう。。。
そういうわけで、最近、
「引用にはちゃんと全部出典つけてよね!」という「ちゃんと」と、
「そんな本質的でないデータ収集に忙殺されるんじゃなくて、
ちゃんと本質を見抜けるようになってよ!」と私が言いたい「ちゃんと」の意味が、
全然ちがうな~、と実感させられています。
データの収集=学問
となっているなぁ、と感じます。
全ては本質を見極める為にあるのに。。
伝統を知る先生に付き、生徒にも器が無ければ、本質を知ることは無理ですが。
本質が見極められていないから、
データを収集して安心しようとするのは、よく見られる現象ですけどね。。。
膨大なデータ収集している機関のサイトを教えてもらいましたが、
(こちらのアシュラムで作成されたデータも収録されています)
どれだけデータを集めても、そこに命を吹き込むには、
一回ちゃんと先生について学ばなければ、意味ない、
という良い例が、そのサイトを使って独自で研究している人です。。
膨大なPDF等のデータや、講義のMP3の録音を、
1TBのハードディスクに詰め込んで、満足しているブランマチャーリンは沢山いますが、
どれだけデータを集めても、それが、
このド頭の中で処理されて、
このド頭の中で何かが起きなければ、
意味が無いのですよ!
と、私はいつも言っています。
最近、すごいスピードで、あらゆる文献がデジタル化されていて、
前のコースではみんな何冊も文法書を持ち込んでいたのに、
今回のコースでは皆、タブレットやiPhoneで検索できるようになした。
これに関しては、すごく恩恵を受けています。
誤字脱字がものすごく多いですが、それでも有難いです。