2018年12月25日火曜日

ヴェーダーンタは「誰に向けて教えられているか」が重要


ヴェーダーンタのヴィジョンは、
この「全て」におけるリアリティーについてであることから、
自分の心についてや、仕事や家庭といった日常生活を含めた、
「全体像を見せてもらう」ということがとても大切です。

その全体像は、順序立ててきちんと見せてもらわなければなりません。

ゆえに、継続しているヴェーダーンタのクラスに途中から参加する場合は、
「全体像をまだ見せてもらっていないから、今聞いているのは部分だけ」
ということをしっかり自覚しておく必要があります。

当たり前のことですが、2時間ものの映画の途中3分間だけ見て、
映画全体の感想を言えないのと同じことです。

ゆえに、ヴェーダーンタについてちょっと聞きかじっただけで、
「ヴェーダーンタとは何か」という結論を急いでも、良いことはありません。

この世界の全てをヴェーダーンタというもう一つの目を通して見ていきながら、
自分が今まで信じていた「この世界とは何たるか」というアイディア、
つまり「自分哲学」を、ひとつひとつ丁寧に、見直していく作業が、
すなわちヴェーダーンタの勉強なのですから。



先日リシケシで、3年コースのクラスの途中から、ところどころ、
合計して数週間ほど聴講した人と話す機会があったのですが、彼は、
「ヴェーダーンタなんて机上論で、実生活に即してない!」と憤慨していました。
全体像を見せてもらっていないのですから、そう思えるのもよく分かります。

特に、マーンドゥーキャ・ウパニシャッドを、オーソドックスな先生が、
3年コースの生徒に向けて教えているのを、訪問中の外国人が聞きかじる、
というのが典型的な危険なパターンなのですが、
実際にリシケシでは日常的に起きていることです。

聴く人の運が良ければ、少し聞きかじった経験が、
人生観を変えるインスピレーションになりますが、
どちらにせよ、きちんと順序立てて全体像を見せてもらわなければなりません。

ウパニシャッドの教えは、祈りのある生活を毎日送っていて、
生活が祈りになっている、精神的に成熟した人の心によってのみ意味を成すものです。

先祖代々ヴェーダの価値観に沿って暮らしてきた、
オーソドックスな生粋ブランミンの先生による、
同様の生粋ブランミンに向けられたレクチャーを、
インドの伝統文化の中で育って来なかった日本人が聴いた場合、
大きなコミュニケーション・ギャップが生まれます。

例えば、自分たちのオーソドックスさを否定することにより、
オーソドックスさを超えた本質を見よ、という話を聞きかじった人は、
「ああ、プージャーや伝統的生活習慣とかいうオーソドックスはダメなんだ」
と結論付けてしまうという、とっても危険な結果になってしまいます。

私の観察する限り、先生の側でも生徒の側でも、
このコミュニケーション・ギャップに気づいていないケースが非常に多い!ですね。
でもやっぱり、日本人がインドで聴講する場合は、
このコミュニケーション・ギャップを意識するべきは生徒の側です。

どのようなバックグラウンドを持った先生が、
どのようなバックグラウンドを持った生徒に話しかけているか。
ヴェーダーンタを聴くときは、これをまずしっかり押さえておく必要があります。

多くの浮遊生徒がしているように、いろいろ聞きかじってみて、
「どの先生が良いか」という先生の聞き比べをするのではなく、
まず、自分のバックグラウンドを良く理解して、
それに合っている教え方をしてくれる先生と学ぶ機会を作ることが大事です。

これらの点をしっかり踏まえて、くれぐれも、
伝統的な手法によって学び、教える能力のある先生から、
(そこなへんのババとか、インド人だったら誰でも良いわけでは無いですよ!)
順序立てて全体像を見せてもらえるよう、
(聞きかじって自分なりに結論づけようとするのは、本当に危険。)
ヴェーダーンタの勉強を進めてくださいね。。


ヴェーダーンタを勉強して、
全てはグレースだと言えるには、
全てにおいてグレースが必要だな、と思う毎日です。。。