2018年9月13日木曜日

意識の解明、メタ認知の研究

ノーベル賞受賞者の利根川進博士も、
意識とはなにか?を、科学的に解明しようと研究されているそうですね。
結構なことではないですか。

意識については、
茂木健一郎さんがクオリアと名付けて研究されていたのは聞いていましたが、
今ではもっと多くの世界に名だたる研究者たちが研究を進めているのでしょうね。

もともと世俗的なことに興味がなく、インドに長く居たせいもあって、
さらに、ヴェーダーンタを勉強しているので、
誰が何を言っている、何を発見した、とかいう、
斯々然々喧々囂々については疎いですし、
変化し続ける事象のニュースを追いかける興味もありませんが。。


「意識」というと、マインドと離して考えにくいので、
その定義が、使われるところや人によってばらつきがありますが、
最近は、「メタ認知」という言葉が使われていることを知りました。
しかし、その言葉がまた、どう認知されているのか、人によってもばらつきがありそうです。。

実際はやっぱり、「意識の研究」といいながら、
相変わらず、脳内の電流を研究している模様。

脳の中で起きている電流については、
日進月歩の脳研究でどんどん解明されていますが、
脳の中で起きている電流を見ている主体、この私という主体、
電流を、意識的にしている、この意識という存在。
それが何か?ということに一旦目を向けてしまうと、
いきなり、「謎」 「神秘」「怪しい」「抽象的」「形而上的」になってしまう。
今まさにここに居る、私のことなのに。


しかし、一昔前までは、「科学者たるものが、オカルトか!?」と、
後ろ指をさされていたであろう「意識の解明」という分野が、
最近では著名な研究者たちによって白昼堂々と研究されるようになった、
ということは、良いことではないですか。

哲学というものはそもそも、自分の本質は何か?万物の本質は何か?から始まったのに、
意識よりも、物質のほうに傾倒し、突き進みつづけて、
行くところまで行き詰めて、そしてやっぱり、意識のほうに回帰してきた、
という放蕩息子な感じですね。頑張れ。


でも、そもそも、この「意識」を科学的に「観察」して「発見」しよう、
という前提は、おかしいのですけれどね。

観察したり、発見したりしている、この主体のことなのですから。
観察する前に既にここに居ますし、
発見できない~とか言っても、今ここに居るではないですか。


研究対象として、科学的に、観察できたり、発見できたりするものは、
物質的なものであり、いわば、三次元の中にある対象物であるはずです。

しかし「意識」とは、三次元を眺めている、次元の違う存在です。
まぁ、こんなことを言っても、凡人には分からないと思いますが。
二次元の中に居ては、二次元を眺められないように、
三次元の中に居ても、三次元は眺められません。
じゃあ、四次元?十一次元?
それらも、思考の中の対象物として、今ここの私に眺められています。
もう、次元のレベルが違うのですね。


線には長さがあります。
その長さによって、線だと認識されます。
線の本質は?線は何から出来ているの?
点の連続から出来ています。
しかし、点には長さも高さも奥行きもありません。
そのようなものをどれだけ連続しても、長さにはなりません!
でも、線はあります。認識できます。観察できます。
同様に、三次元も、素粒子も、ニュートリノも、ブラックホールも、
観察できるし、発見できます。

でも、それらを眺めている、この意識という存在、
ニュートリノの知識を支えている存在、
素粒子、原子、元素、という知識の表れを支えている存在、
それらによって構成されている宇宙という知識の表れを支えている存在、
長~く連続する時間というコンセプトを、長さゼロで支えている、
今という、この意識という存在、
空間もしかり。
その存在が、今ここにいる私である。


何馬鹿なこと言ってんだ?と笑っているあなたの身体と心、
笑いの対象である、私の身体と心、
そんなものは、刹那に変わり続ける素粒子なりなんなりで構成されているものであって、
今私が話しているのは、それらを支えていて、
しかし、それらに触れられていない、この意識のことです。