2018年8月20日月曜日

普通って? Normality の norm は何か?



皆と一緒の「普通」になれなくて悩むより、

その普通たるものを疑ってかかり、

倫理的・論理的に問い考えて、

いわゆる「普通」の中に、矛盾を見出せるようになって欲しい。




普通であろうがなかろうが、

人間が人間たる所以である、

普遍の倫理(思いやり)と論理(ロジック)を持って、

いわゆる「普通」という概念に疑いを持って問いかけることにより、

それがいかに変な概念であるのか、

いかに倫理的に破綻しているのか、

いかに論理的に破綻しているのか、

見破れるようになって欲しいものです。



普通(normal) の基準(norm)は、

自分の中にある、自分の中核を成す、

自分の個性をも超越した、普遍的な価値基準、

つまり、倫理(思いやり)と論理(ロジック)だと気付いたら、

その基準を他人に決めてもらおうとしていた、

今までの自分の愚かさにも気付くでしょう。

いわゆる「普通」を構成している大多数の人が、

思いやりの心が濁り、ロジックが濁っているからといって、

それが正しくなることはありません。



自分の出来る限りの客観的な状況判断により、

自分が思いやりを持って行動しているのなら、

この世の誰にも認めてもらえなくても、

自分が何をしているのかは、自分が一番よく知っているのだから、

どうでも良いのです。



しかし、普通の人は、

普通になろうと必死に頑張ったり、

普通になれないことをやたら気にして、

大多数から「君は普通だ」と言われて安心したり落胆したり、

同様に、「普通じゃない」と言われて安心したり落胆したり、

そんなことに忙しくて、

自分を苦しめているその「普通」を、疑い問うことをしないんですね。。






「私」や「他人」や「世界」をジャッジするための基準として、

ジャッジメンタルな使われ方をされている、

「普通」という言葉は、

心理や倫理の秩序(ダルマ)において、

そして、その現実性において、

「普遍」を考える入り口にもなる、

と思って書きました。